Guitar Case 102

Guitar Case > 2014

ひと夏のファンタジア

五條映像フェスタ2014が、9月6日五條市民会館で開催されました。
400人余り収容のホールに立ち見が出るほどの盛況で、河瀬直美監督が来場されるというのもその理由の1つでしょうか。
五條市主催(観光戦略課)としては、クリーンヒットです。

というのも、このイベントではチャン・ゴンジェ監督の「ひと夏のファンタジア」という作品が世界中のどこよりも早く初公開されました。
本来、9月12日から始まるなら国際映画祭2014で発表される作品なのですが、まるまる五條でロケされた映画ということで初公開になったようです。
河瀬直美監督は、この映画にではプロデューサーとして関わり、この日の舞台挨拶と相成ったわけです。

「ひと夏のファンタジア」という映画は、世界の新進気鋭若手映画監督に映画制作のチャンスを提供する「NARAtive(ナラティブ)」というプロジェクトから生まれたもので、河瀬監督との縁もあってかそのロケ地に“五條”が選ばれたようです。
この映画には、有名な俳優が名前を連ねているわけではなく、著名な文学作品を映画化したわけでもない、いわゆる芸術作品の範疇に入るものです。
私なりの解釈で説明すれば、五條という町を以下のようにとらえこの物語の交差点としています。

五條市は、都会志向や仕事を求めてふるさとを離れる若者の多い町でもあり、それでも留まった者なかにはIターン・Uターンで戻ってきた者の混在するところである。
一方、同じ五條市内の旧大塔村篠原地区という山村を振り返れば、10世帯ほどの高齢者がひっそりと暮らしているいわゆる限界集落が存在する。
そこにもまたかつて、村を離れる者留まる者の分岐点があり、留まった者はそれも運命と受け入れ山村でのルーティーンを全うしようとしている。
どちらが勝ち組でも成功者でもなく、それぞれの暮らしに真摯に向かい合う生き様に、やがて大きな花火があがるのではないだろうか。
ちなみに篠原地区は、江戸時代で花火師鍵屋として大成する弥兵衛の故郷だったと伝わる。

新町や吉野川をはじめ、市内の飲食店や地元住民の出演など、市民にとっては見所も多く、以上のようなテーマも相まみえて、いい映画でした。
この映画にちなんだ河瀬監督のトークもしっかりと花を添えました。
「ひと夏のファンタジア」は、9月14日(日)15:15〜奈良女子大・講堂(なら国際映画祭2014・1回券1000円)で観賞できます。
http://nara-iff.jp/2014/niff2014/program/narative-2014.html

by くりんと

Guitar Case 101

Guitar Case > 2014

南北戦争の銃弾

 25年ほど前、行きと帰りの飛行機の搭乗券だけを用意してアメリカ旅行に出かけた。1ドル=150円の時代だったので、それだけで30万円ほどかかったと記憶している。したがって、向こうではグレイ・ファウンドの長距離夜行バスを利用し、交通費・宿泊費は節約する旅だった。ニューヨークからシカゴ、そしてニューオリンズまで縦断したところで、とうとうその苛酷さにギブアップ。案内所で安いモーテルを探してもらい、次のワシントンへは飛行機を使うことになる。

 ニューオリンズは居心地よく2泊3日の滞在だった。ストリートのデキシーランド・ジャズやジャズバーでのアルコールに興じ、また、ミシシッピ川を遊覧船で下った。そんな中、とある骨董品屋に立ち寄ると、ケネディ大統領の肖像が刻印されたクォーターや記念銀貨が目に入り、興奮買い。


 店を出ようとすると、白い石がびっしり詰まった丸く大きな瓶が目にとまった。よく見ると1つ1つ銃弾のようにも見えるが、ずいぶん摩耗している。段ボールの破片みたいなものには、マジックで「Civil War $1.00」と書かれてあった。その時点では意味がわからず、モーテルに帰って辞書で調べてみると「Civil War=南北戦争」とあった。ということは、あの白い石のようなものは、南北戦争のとある戦場から拾い集めてきた銃弾で、1個1ドルというわけか。溜飲が下がるといても立っても入られず、無性に欲しくなって夜が明けるのが待ち遠しくなった。
 ニューオリンズ滞在3日目で、この日は、ワシントンに向けて出発の日だ。モーテルから歩いて20分ほどのところに例のお店があったと記憶しているが、わくわくしながら尋ねてみると頑丈な鉄格子のシャッターが降りていた。開店にはまだ早かったのかなとも思ったが、周辺の商店は軒並み同じ状態だ。この日は日曜日。アメリカの一般的なお店は、日曜日は休息日でお休みということに気づく。
 「へぇ〜〜〜っ!」この時の落胆は、25年経った今も、心残りとして続いている。知り合いがアメリカへ行くと聞くと、ニューオリンズへは行かないかどうか尋ね、「南北戦争の銃弾」をお願いしようと試みてきたが、今なおそんなチャンスには巡り会っていない。

 ところが、数ヶ月前、ネット上で「南北戦争150年コイン・切手・銃弾セット」なるものを見つけた。「これだ!」ところが売り切れ。整い次第発送するよう予約入れておいたら、先日、突然届いた。真っ先に銃弾を手にする。ずっしりと重い。あの時は白い石と思っていたが、よく見ると鉛のようである。25年間の想いが、文字通り銃弾の重みと重なる。
 「われはもや 安見児得たり 皆人の得難にすとふ 安見児得たり」
 25年来の心残りが、やっと消えた瞬間である。

by くりんと

Guitar Case 100

Guitar Case > 2014

エンヤトット一座 3rd Album 「Mt. Kongou Worker's Band」

 

  2011年3月11日に発生した東日本大震災及び福島原発事故。そして、同年9月2日、台風12号によってもたらされた紀伊半島大水害と、未曽有の自然災害が私たちの暮らしと備えの在り方を一変させました。ささやかながら、私も復興ボランティアとして石巻の被災地に立ち、また一座として、大塔町復興チャリティー・ライブを行いました。あわせて、これらの出来事を、自分自身の心と体にしっかりと記憶させたいと思いました。
 ところが翌年、今度は私自身の体に災いがおとずれ、それと戦うこととなります。こうした内外の警鐘は、半世紀余りを生きてきた私にとって、これまで積み重ねてきたアイデンティティーというものを取り壊し、その再統合に迫られることとなったのです。
 前置きが長くなりましたが、エンヤトット一座第3作目のアルバムは、前2作とここが大きく異なります。2011年を経験した一座の音楽の中で、何が残り何が変化したのか、じっくりとお聴きください。そうそうメンバーの演奏も、ずいぶんと変容をとげてきたはずです。(拝)

1.OHKINI 詞/曲:くりんと
 声だかに言うのはおこがましいのですが、私の中の震災復興応援ソングです。復興ボランティアを経験する中で、感じたこと、つぶやいたこと、それらがやがて自分自身への応援ソングにもなっています。
2.with YOU 詞/曲:くりんと
 思いを告げる術を知らなかった10代、道を切り開く術を知らなかった20代、50代になって少しはその術を会得したのかな?
3.Get in the groove 詞/曲:くりんと
 高校生の息子から「The Traveling Wilburys」のアルバムを薦められ、その中のある1曲に触発されたリズム&コード進行。サビ部分のヴォーカルは、ダブルトラックで雰囲気を出しました。
4.Kahoo 詞/曲:くりんと
 80年代、グルーブ感を取り除いたテクノポップが一世風靡した。そんなサウンドを木村カエラのアルバムの中にも見つけたので、勇気を出してトライしてみた。
5.ゴンドラの唄 詞:吉井勇 曲:中山晋平
 1915年(大正4年)、芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌った曲。この歌詞がとても好きで、同じ3拍子ならジョン・レノンの「God」に載せてみるとおもしろいと思った。
6.ソーラン讃歌 詞/曲:くりんと
 1995年に作った曲で、橿原わたぼうしコンサート作詞・作曲賞を受賞。朝鮮の打楽器チャンゴが奏でるリズムを楽しんでみた。間奏は和シンバルのチャッパ。
7.Izanagi & Izanami 詞/曲:くりんと
  間奏から入ってくる桶胴太鼓は気づかれただろうか。また、全編にわたって団扇太鼓が奏でられている。和のグルーブ感を楽しんでみたつもりだが、伝わっただろうか。
8.中壁の戦い 詞/曲:くりんと
 「三国志」に赤壁の戦いがある。現在社会においても、男には男の戦いがあり、 とりわけ中年の壁というものが大なり小なり存在する。名づけて「中壁の戦い」。
9.明日に唄えば 詞/曲:くりんと
  ジャズ風に女性ヴォーカルで歌って欲しいと、2001年に作った曲。わがバンドには、なかなかジャズの引き出しがなく、とうとうウクレレを引っ張り出してきた。ここからアコスティック調のアンコール・ナンバー。
10.ホームセンターへ行こう 詞/曲:くりんと
  当時、ホームセンターに日参していた頃の1995年に作った古い曲。ライブではよくリクエストのかかった曲だが、これまでレコーディングの陽の目を見ず、ついにその実現となった。
11.What did you do last night ? 詞/曲:くりんと 補作詞:エンヤトット一座
 最近、胸が高鳴るような動きをしていますかと、メンバーに問いかける問答ソング。1番はくりんと、2番はメンバー全員が順にヴォーカルをとっている。

by くりんと

Guitar Case 99

Guitar Case > 2014

ウクライナの歌姫ナターシャ・グジー

 なら・ヒューマンフェスティバルが昨日開催され、ウクライナの歌姫ナターシャ・グジーさんがゲストで招かれることを知った。ウクライナの民族楽器バンドゥーラを奏でながら「いつも何度でも」を歌っている映像を見たことがあり、それがとても魅力的だったので、すぐに反応した。  
 まだまだ知名度は低いのかなあ、定員400人の会場は半分程度しかうまっていなくて、その前の小・中学校の吹奏楽演奏が終わると帰っていくご家族も多いこと。私は、迷わず最前列を選んだ。  実は、私もこの日まで知らなかったのだが、ナターシャさんのお父さんはチェルノブイリ原子力発電所で働いていて、発電所から3.5kmの所に住んでいた。そして、1986年彼女が6歳の時、あの爆発事故によって被曝、その後故郷を奪われ避難生活で各地を転々としたようだ。
 そんな話を交えながら、詞の意味がとても深く彼女の大好きな歌だという「いつも何度でも」を歌った。最前列で聴いていて何度もジ〜ンときた。確かに、意味の不可解な部分の多い歌だが、こういう聴き方もあったんだと胸いっぱいになった。

by くりんと

Guitar Case 98

Guitar Case > 2014

『かぐや姫の物語』に見る自然描写と歴史的背景

 「僕はずっと前から、ざっとラフに描いて、まだ一本の線にまとまっていないクロッキー風のドローイングが動いた時の面白さに注目していました。」と高畑勲監督が言うように、この映画の最大の特徴はこれまでのアニメにない線描の面白さにある。また、細部のディテールも意図的に甘くし描き残しのような余白も多い。一見手抜きのようにも写るが、ここに彩色しキャラクターを動かしていくとなると、これまでのアニメ制作の何倍もの労力と時間、制作費がかかるそうだ。高畑監督渾身のチャレンジである。

 今回、美術監督を務めたのは、『となりのトトロ』『おもひでぽろぽろ』『千と千尋の神隠し』など数々のジブリ作品に関わって来た男鹿和雄さんで、『もののけ姫』以来16年ぶりに背景画を担当したらしい。彩色は通常のポスターカラーではなく、透明水彩の絵の具で描かれているそうで、そういう手法もアニメではほとんど前例がないという。
高畑監督はが「この映画は虫と草の映画です」と断言するように、男鹿和雄の手を経て、里山の描写がいきいきと描かれ、そこを駆けまわる幼き日の姫が日本のハイジとなって実現している。四季の移りを敏感にとらえた植物や動物がすばらしく、フジやヤマザクラの花、アケビの実、キジやヤマセミ、とりわけ、たわわに実ったヤマブドウの実を子どもたちが食べるシーンが大好きだ。
 また、竹取の翁が材としての竹や食材の筍を採るシーンがある。この場合の竹林は、竹細工にも適した在来種のマダケがふさわしい。中国南部を原産とするモウソウチクは大きな筍を実らせるが、諸説はいろいろあれど『竹取物語』が成立したとされる10世紀半ばには、日本の野山において一般的に見られなかったと考えてよい。マダケの筍は5月〜6月初旬に採れ、モウソウチクの場合顔を出さないうちに掘り起こすのに対して、マダケのは地表に出ている部分を刈り取る。翁も姫もそうやって筍を採っているが、姫はその後イノシシの親子連れに遭遇する。イノシシは通常4月〜5月に出産するので、マダケの筍シーズンと重なるわけだ。映画ではアザミやツユクサの花も描かれており、ツユクサは少し早いような気もするがそういう地域があるのかもしれない。

 このように細部にわたっての整合性を求めてしまうのは、ファンタジー映画へのタブーであろうか。しかし、細部はともかく、大切なシーンでチェックを入れずにはおれない絵が2ヶ所がある。
 まず、竹取の翁の家だが、大きな茅葺きの家として描かれ、竹を使ったと大きな板間まである。一方、木地師の家は小屋掛け風のものが何棟かあって、そこで大家族が暮らしている。木地師は稼業の材を求めて各地の山を転々と移動する話が劇中でもなされており、こうした「山の民」の描かれ方は史実に近い。実は、戦前までこうした「山の民」は比較的多く、紀伊山地などにもそうした由縁の集落が残る。
 ならば、竹取の翁夫婦も「山の民」として描いて欲しかったというのが、私の1つ目の視点である。竹を扱い竹細工を生業にする人たちも木地師同様に「山の民」であり、竹製品の販売や補修しながら村々を周り歩く暮らしぶりは決して豊かではなく、茅葺きの板間つきの大きな家に定住はありえない。お伽話としては、田舎暮らしの老夫婦にふさわしい家かもしれないし、やがて帝から求婚されるほどの姫の生家としては、最低限の体裁を整える必要があったのかもしれない。『竹取物語』では、月から迎えに来た使者が翁に向かって「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり」と罵しり、卑しい身分として設定されている。この映画で描かれた木地師の家に近いものであってもよかったのではないか。

 次に、5人の貴公子がそれぞれに示された難題に対して回答をもってくる。誰とも結婚したくなくかつての山暮らしに帰りたい一心の姫は、スケコマシ石作皇子が誠実で飾り気のない想いとして「一輪の野花」に託し、「田舎へ行こう」と誘う青臭い殺し文句に、あわやころりと落てしまいそうな瞬間がある。
 この時の飾り気のない野花として「レンゲソウ」が用いられている。レンゲソウは中国原産の帰化植物であり、いつ渡来したのかははっきりしない。文献では、貝原益軒の『大和本草』(1707年)に「京畿ノ小児コレヲレンゲバナト云、筑紫ニテホウザワハナト云」と出てくるが、緑肥や牛の飼料として用いられ、広く春の風物詩となるのは明治以降のようである。したがって、かぐや姫の時代には存在していない草花で、百歩譲って小野妹子が持ち帰ったとしても、当時は蓬莱の玉の枝の勝とも劣らない珍種であり、無垢な想いを表現した「一輪の野花」には全くふさわしくない。私なら、野辺に咲く清楚なササユリを描きたいところだがどうだろう。

 ファンタジー映画に、大の大人が水を差すまったく滑稽無糖な視点だが、日常的に野山を歩く人間にとって、どうしても違和感をぬぐいきれないので、ここではき出させていただいた。(合掌)

by くりんと

Guitar Case 96

Guitar Case > 2014

姫の犯した罪と罰

 『竹取物語』の終盤、月から姫を迎えに来た使者の中の頭が、決死の覚悟の造麻呂に対してこう言う。
 「汝、をさなき人、いささかなる功徳を翁つくりけるによりて、汝が助けにとて、かた時のほどとて降ししを、そこらの年頃、そこらの金賜ひて、身をかへたるがごと成りにけり。かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。罪の限果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、能はぬことなり。はや出したてまつれ」と。
 つまり、「かぐや姫は、(月で)罪を犯したので翁のもと(地球)にやったが、その罪が解けたので迎えに来た」というわけだ。では、その「姫が犯した罪と罰」とは何か。その問いが、高畑勲監督渾身の自信作『かぐや姫の物語』の副題となっている。

 この映画に対しては賛否両論、答えが見えぬままという反応も多いようだが、私は取り付かれ二度観に行った。この先は種明かしになるので、これから観ようと思っている人は、観劇後お読み下さい。

 「月」世界は清浄無垢、争いなく欲情なく穢れのない楽園。地球上の人間界から見れば死の世界(あの世)とも言える。
 一方、「地球」は、穢れ多く、争いや貧富の差、不自由さなどにあふれ、仏教界でいう欲望・無智・存在・無常といった生きる「苦」に満ちたところ(この世)である。
 姫は、地球からやってきた天女が唄うわらべ唄を聴いているうちに、命あふれる地球の豊かさへの憧れが日に日に高まり、地球で鳥や獣のように生きてみたいと願うようになった。これが、「月」世界における「禁断の地に憧れた罪」である。

 まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
 まわって お日さん 連れてこい
 鳥 虫 けもの 草 木 花
 春 夏 秋 冬 呼んでこい      (※ 木地師の子どもたちが唄っていたわらべ唄)

 めぐれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ
 めぐって 心を 連れてゆけ
 鳥 虫 けもの 草 木 花
 人の情けを 育みて
 待つとし聞かば 今帰りこむ     (※ 姫が天女から聞き覚えたわらべ唄)

 姫は、「禁断の地に憧れた罪」で(穢れ多き)地球に下ろされる。ところが、竹取の夫婦に育てられ木地師の子どもたちと野山を駆け巡る暮らしのなかで、鳥や獣のように無垢に生きる喜びに包まれ た。 
 やがて、「高貴の姫君となって貴公子に見初められ、添い遂げることこそ姫君の幸せ」と信じる翁夫婦と共に都での生活が始まると、数々の「罰」が待ち受けていたのだ。
 ○ 高貴の姫君は、汗をかくことも笑うこともないと諭される
 ○ 山の連中とはもはや住む世界が違うと戒められ、(結局、山にかつての生活はなく)もはや帰るところはない
 ○ 5人からの求婚はすべて偽物、そして、都の生活、ここにいる私も全部偽物
 ○ いよいよ帝の求婚を受け、帝の言葉に背けないという人間界の掟をおもいしる

 皮肉にも姫の罪が許されたのは、帝に抱きすくめられ、我知らぬ間に発した言葉「もうここにはいたくない」 の瞬間。「月」世界は、8月15日迎えの使者を送ることを決めた。その後すぐさま、発した言葉の訂正と地球滞在の猶予を願うが、その決定は絶対である。

 使者の迎えをその瞬間まで拒んでいたが、天女から羽衣を肩にかけられると、すべての記憶や感情をリセットし自ら導かれていく。天女たちが奏でる軽やかな音楽と共に月に帰る途中、小さくなった青い地球を振り返った時、姫の目には涙が溢れていた。その涙こそ、かぐや姫が過ごした「地球」を肯定するものである。
 ○ 生きてる手応えがあれば(この世の苦は)何でもない、この地に生きる幸せと喜びを
 ○ 喜びや悲しみ、この地に生きるものはみな彩りに満ちている
 ○ 寒々しいときもあるが、そんな時はみんなじっと我慢をして春の巡りを待っている
  ○ 鳥 虫 けもの 草 木 花 人の情けを育みて 待つとし聞かば 今帰りこむ

 「この世は捨てたものじゃない、生きるに値するんだ」と高畑勲監督は、そしてジブリ映画は、かぐや姫の姿を通して声高に訴えている、と考えるのはどうだろう。

by くりんと

Guitar Case 95

Guitar Case > 2014

大瀧詠一の日本ポップス伝「演歌とフォークソング」

 昨年末の大瀧 詠一の逝去をうけ、私的追悼行為としてYou Tube上にアップされている「山下達郎のサンデーソングブック“新春放談”」(TOKYO FM)等々を聴く日々が続いている。すると予想もしなかった展開が待っていた。私の大好きなミュージシャン岡林信康、高田渡、小林旭、クレイジーキャッツ、そして大瀧詠一が一本の赤い糸でつながっていくのだ。少々、興奮気味である。
 大瀧がはっぴいえんど時代に、岡林信康のバックバンドをやっていたのは知っていたが、高田渡のバックも経験していたことをあらためて知った。そして、当時を振り返る二人の対談(「大瀧詠一のスピーチバルーン」ニッポン放送)が興味深い。
 高田渡の歌風のルーツは、「まっくろけ節」「ノンキ節」などを作った明治時代の演説歌作家添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)にさかのぼるらしい。自由民権運動の演説に対して取り締りが厳しくなった後、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」で、当時の演歌は政治を風刺する歌(プロテストソング)であったという。戦後、演歌は古賀メロディーや美空ひばりの台頭によって艶唄にかわっていくが、その思想性は高田渡や高石ともやなどのフォークシンガーに受け継がれていったようだ。先の番組の中で、大瀧自身、当時から高田渡に対して一目置いていたと話しており、いつにないマジな高田渡の受け答えが面白い。やがて、フォークソングもかぐや姫や吉田拓郎らの台頭によって、艶唄にかわっていくのは皮肉なものである。

 次に、大瀧は小林旭やクレイジーキャッツの大ファンであることを公言している。小林旭のめいいっぱい声を出して気持ちよさそうに歌うその歌いっぷりが好きらしいが、1985年に「熱き心に」を提供し、その特徴を十二分に引き出し たことはよく知られている。クレイジーと小林旭の共通点として、コミカルな歌が多いこと、思想的でもありエンターテイメント性も優れていることなどを挙げているが、クレイジーはともかく、小林旭も「アキラのズンドコ節」「アキラのまっくろけ節」「恋の山手線」「自動車ショー歌」「恋の世界旅行」など 、1960年代にずいぶんとコミカルソングを出している。また、「北帰港」や「惜別の歌」など理知的な歌詞のものも多く、私が惹かれる理由を大瀧詠一がうまく代弁してくれた。
 そういえば大瀧の作品にも、コミカルなものやユーモアが随所に見え隠れしている。とりわけ、1月から12月までの歌を1曲ずつ作って順番に収めた「NIAGARA CALENDAR(1977年)」というアルバムは秀作だ。また、「ナイアガラ音頭」「クリスマス音頭」「イエロー・サブマリン音頭(プロデュース)」など にみられるよう、和リズムも大好きである。
 なお、「日本ポップス伝」(1999年1月4日〜8日NHK-FM)では、大瀧独自の日本歌謡の歴史的系譜の解説も行っており、興味深い。

 私のコミカルソング好き、社会的風刺ソング好きも、行き着くところは「演歌」らしいということがわかった。「まっくろけ節」「ノンキ節」「オッペケぺー節」など、 今聞いてみても心地よい。なのに私の昨今作る歌には、コミカルさもなければ思想性も欠如し、さりとて艶っぽさなども皆無である。(笑)
 これからの進む方向が見えてきた。

by くりんと

Guitar Case 94

Guitar Case > 2014

レクイエム“大瀧詠一”

 大瀧詠一氏の訃報が、年の瀬も押し詰まる2013年12月30日に届いた。享年満65歳。
 私の大好きなミュージシャンの一人で、おめでたいお正月のはずがどこか晴れない。ジョン・レノン(1980年・享年満40歳)、河島英五(2001年・享年満48歳)、 高田渡(2005年・享年満56歳)忌野清志郎(2009年・享年満58歳)のときも同じような衝撃を受けたが、65歳とはいえ彼もまた早世と言える。はっぴいえんど時代に同じメンバーであった細野晴臣氏の「彼の中に詰まっていたポップスの宝庫はどこに行くんでしょうか。大瀧君はずっとソロアルバムを作っていなかったのが気になり、11月中旬に『皆で手伝うからソロを作ろう』とメッセージを入れたのが最後です」という追悼コメントが届けられているが、やはり早すぎる死を悼んでいる。
 ミュージシャン大瀧詠一を簡単に紹介すると、1981年にリリースされた『A LONG VACATION』(通称ロンバケ)がミリオンセラーとなり、当時の学生たちの多くがその洗礼を受けた。ただ、マニアにとっては無名時代のアルバムも大切なコレクションで、『NIAGARA MOON(1975年)』『NIAGARA TRIANGLE Vol.1(1976年)』『GO! GO! NIAGARA (1976年)』『NIAGARA CALENDAR(1977年)』などがヒット前の布石となっている。また、『風立ちぬ(松田聖


 

子)』『冬のリヴィエラ(森進一)』『熱き心(小林旭)』など楽曲提供でもヒット曲を連発し、その評価は揺るぎないものとなっている。ただ、細野氏が言うように、ソロアルバムは1984年の『EACH TIME』以降発表されておらず、ファンとしての最後の望みはそれに尽きるという矢先だった。

 You Tube上には、過去に大瀧詠一氏が出演したラジオ番組が多数アップされており、『山下達郎のサンデーソングブック』の「新春放談大瀧詠一&山下達郎」や2013年9月20日にオンエアされた坂崎幸之助がDJをつとめる「K's TRANSMISSION」という番組が興味深い。まだほんの少し聞きかじっただけだが、大瀧氏はミュージシャンとしての活動に既に区切りを付けたようで、今や日本・アメリカのポップス研究に精力を費やし夢中になっている模様。その成果を限られたラジオ番組で 披露するという露出度で、はたして細野氏の問いかけに応えたかどうかは可能性が低い。「山下達郎君が今なお一線で活躍してくれているなら、私の出る必要はない」というのが言い分の大意である。それでもこの先も元気であられたなら可能性はゼロでないわけで、大好きなミュージシャンの逝去というものは、あらためて空虚感が漂う。

 幸い、今まで耳にしていなかったラジオ番組の録音をいつでも取り出せる環境に出会い、しばらく追悼ための時間を過ごしてみようと思う。

by くりんと