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                         くりんとのフィールドノート

           
   
 宇陀松山

座敷玄関・袖うだつ・虫籠窓が残る伝統的町屋


●重要伝統的建物群保存地区
 奈良県では、今井町(1993年)、宇陀松山(2006年)、五條新町(2010年)の3地区が国の重要伝統的建造物群保存地区の選定されている。(2011年11月現在全国で93地区)
 ここ宇陀松山地区は、戦国時代に秋山氏が城を築き、その麓に集落をつくったのに端を発するが、1585年に豊臣系家臣が入部した際、城及び城下町の拡張整備が進められたとされる。以後、桜井・榛原と吉野を結ぶ旧伊勢街道の要所でもあった松山町は「宇陀千軒」「松山千軒」と呼ばれ、商家町として栄えた。南北に流れる宇陀川に沿った伊勢街道筋には、「松山通り」「上町通り」「下町通り」と名付けられており、江戸から明治にかけての商家やその町屋がたくさん残る。
 そうした伝統的な町家には「座敷玄関」「袖うだつ」「虫籠窓(むしこまど)」「漆喰壁」「格子」「矢来」「前川(と呼ばれる水路)」などの意匠や建築構造が施され、その分野には全くの門外漢ではあっても興味をそそられる。商家には、今なお伝統的な掛け看板も残り、それらを見て歩くだけでも楽しい。ちなみに、1806年(文化3)から薬問屋を営んでいた旧細川家住宅(現・薬の館)に残る銅板葺きの看板(「天壽丸」の文字が見える下画像)は必見である。なんでも、今この看板を再現しようものなら、小さな新築住宅一軒が建つそうだ。(薬の館管理人・談)

森野旧薬園より森野吉野葛本舗本社工場


●薬の町

 そもそも大宇陀地区は、飛鳥時代から「阿騎野」と呼ばれる宮廷の狩場で、「日本書紀(巻第22)」によれば、推古19年(611 年)の5月5日に推古天皇によって薬狩りがここ宇陀野で行なわれたとある。ボランティアガイドの森田さんの説明によると、「この辺りは昔、水銀が産出されていたところで、当時、水銀には不老不死の力があるとされていた。その地域に自生する植物も、きっとそうした“気”を取り込んでいる恵みだろうということで珍重された。」と言う。
 そうした歴史的経緯を伝えるのが、昭和26年に昭和天皇も御視察されたという森野旧薬園。代々葛粉の製造を継承する中、当主第11代森野通貞の薬草本研究は江戸幕府にも聞こえ、幕府採薬使の植村左平次とともに北陸・美濃・近畿一円の山野から薬草を採取して、幕府に献上した。その褒賞として幕府から貴重な中国産の薬草が下付され、森野薬園を私設し、将軍吉宗の国内産漢方薬の普及に貢献したという。したがって、ここは江戸時代の面影を残す希少な薬園とて国の史跡に指定されている。また、旧薬園の山麓には森野吉野葛本舗の吉野葛晒し工場も残り、冬季には吉野葛の製造過程を見ることができるかもしれない。
 上町通りの薬の館では、江戸時代からの薬問屋としての賑わいを忍ぶことのできる。ここ旧細川家は、藤沢薬品工業(現・アステカ製薬)の創業者藤沢友吉の祖父母の家であり、そうした縁からか藤沢薬品の展示資料もある。ちなみに、津村順天堂、ロート製薬、桶屋製薬等の製薬会社も、「ルーツは宇陀だ」(薬の館管理人・談)というが未確認である。

   
         
 
     
   
         


●史跡宇陀松山城跡
 中世に伊勢国司北畠氏から「和州宇陀三人衆」と呼ばれたうちの一人秋山氏が、この古城山一帯に城を築いたのが始まりとされるが、1585年、豊臣秀長の大和郡山入部により、豊臣家配下の大名の居城となる。その際、城下町拡張整備が行われ、現在の松山地区にその名残りをとどめていることは前述したとおりである。しかし、1615年、当時の城主福島孝治が改易されると、城も破却された。(福島孝治は福島正則の弟で、大阪夏の 陣で豊臣方に内通したというのが改易の理由らしい。)
 代わって藩主となったのが織田信雄(信長の次男)である。家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡など併せて5万石を与えられというが、宇陀の領地は実質的な隠居料であったとも推測される。ここ宇陀では、松山の城に代わって、長山(現・大宇陀地域事務所周辺)に藩屋敷が造られたらしいが、信雄自身がこの地に足を踏み入れた形跡はない。後に京都に隠居して、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送ったらしい。宇陀の領地は、五男・高長が相続し、3代藩主長頼まで続くが、1695年、織田松山藩は国替えのため柏原に転封となり、松山藩は以後天領となる。
 松山城跡は黒門より本町通りを経て、春日神社横の山道を登る。神社から10〜15分程度で古城山山頂に到着するが、標高差120mを一気に登ると息を切らしてしまう。山頂は本丸の発掘調査も進められているらしいが、城跡を忍ばせる建造物は石垣ぐらい。付け焼刃の観光スポットを造ろうものなら、すぐに史跡指定から外されてしまうらいしい。しかし、ここから360度に開けた眺望は山城ならではの戦略的意図が見え隠れする。

城につながる「本町通り」より古城山へ

   

松山西口関門(通称黒門)

 

本丸御殿跡

 

織田信雄が藩屋敷を構えた長山

標高470mの古城山より「吉野」を望む

 
 
   

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