● 【葛城二十八宿】第十三経塚「妙経勧持品」(かんじほん)

堀越癪観音(かつらぎ町)

【妙経勧持品第十三】  ※要約
   薬王菩薩や大楽説菩薩をはじめとする二百万人の菩薩が、法華経を広めることを名乗り出るが、「どこで」かが言及しない。さらに、有学と無学の八千人の男性出家者たちが弘教を申し出るが、彼らは皆「ただし娑婆(サハー)世界以外で」と条件を付ける。そして、菩薩たちは「勧持品の二十行の偈」を挙げ、滅後の弘教の困難さ困難さを語る。
 たとえそのような困難があっても、「私たちは身体も、生命も実に惜しむことはありません」と述べるが、漢訳では「不惜身命」となっている。(第六十六代横綱若乃花の横綱昇進時の口上)

【日本遺産】 葛城修験(構成文化財)
 向い多和 勧持品(第十三経塚)/堀越癪観音(かつらぎ町)/葛城蔵王権現社(かつらぎ町)

文献

引用・抜粋文

『葛城峯中記』
(室町時代初期)
鎮永/千勝院

五十六 堀越宿 燈明峯寺 勧持品第十三 堂ノ下ヲ通、中筋ヲ行也。蔵王宿、東へ行ハ大畑、光瀧ヘハ北ノ谷下ル也。
五十七 大畑 胎蔵界大日阿弥陀如来 土佛大黒。勝樂寺ノ本尊也。
・・・光瀧下道荒瀧尼瀧児瀧。

『葛嶺雑記』
(江戸時代後期)
智航/
犬鳴山七宝龍寺

鎌の多輪経塚
 行程八丁の間河州瀧の畑村領也今時むかひのたわといふ妙勧持品十三之地
蔵王権現
 本社脇に石像神変大士その前に蔵王山五仏院としるせし古代の石とうろうあり四五丁ゆきて左りの山に丹生明神脇に一言主神
一乗山勝楽寺
 鎮守八幡宮本堂に弥陀観音勢至
高祖堂其前にいにしへ護摩を修し給ふあとなり
御腰かけ石此里に守安茂十郎ありその家祖次郎五郎なるとき高祖御佛留なし給ひて一夜に法華経を書写し給ふとなんまた砥石畑といふに行者斧磨所有当時茂十郎が突に御作の大黒天を守護せりこれより蔵王迄帰りて河内にいたる

【以下の文献より引用・抜粋】
●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録

 第十二経塚から第十三経塚向い多和へは、燈明岳を経て、直接進む林道を使えば20分ほどだろうか。しかし、燈明岳の山麓には堀越の集落があり、「堀越癪観音」という名で親しまれている寺院がある。「癪(しゃく)」とは、原因が分からない痛みを伴う内臓疾患の俗称。本尊は、役行者が癪病を患った母の回復を願って彫ったと伝わる十一面観音菩薩で、毎年5月3日に開催される躑躅(つつじ)祭りでは、犬鳴山の修験者による柴燈護摩が執り行われ多くの参詣者で賑わう。『葛城峯中記』には、「五十六 堀越宿 燈明峯寺 勧持品第十三 堂ノ下ヲ通、中筋ヲ行也。」という記述が見られ、室町時代には、この山頂付近に「燈明峯寺」という寺院が存在した。しかし、この寺院も江戸初期には衰退していたようで、その信仰は堀越観音に移っていったのだろうと想像する。よって、「第十二経塚→燈明岳(燈明峯寺)→堀越観音→第十三経塚」という巡礼道を想定してみた。
 東谷、平、滝、広口の四つの村を総称して四郷といい、柿串の産地として名高い。11月、秋も深まり、串柿作りが始まると、村内の道路脇などを利用して干柿の玉のれんが吊るされ、里は柿一色に染まる。その風景を目当てに、観光客がにわかに現れるが、東谷を訪れた人たちの足は自ずと堀越観音に向かう。ここには、樹齢約400年の神木大銀杏があり、12月頃には見事に紅葉する。この大銀杏の葉のエキスで作った「いちょう飴」が名物で、山歩きの疲れを癒やしてくれる。和歌山県指定の天然記念物「さざんかの老樹」もあり、花の季節に訪れるのも一興である。
 堀越観音から、集落の中、緩やかな上り坂を進んでいくと、左手に公衆トイレと駐車スペースがあり、そこが燈明岳への登山口となっている。第十三経塚向い多和へは、さらに舗装された自動車道を進むと、林道との交差点。そこから第十三経塚へは、案内板があり、尾根筋にとりついて5分ほどである。山頂には、「大日如来」と刻まれた大きな自然石がり、それが経塚である。その経塚の裏手を尾根に沿って蔵王峠まで歩くことができるが、もう一度先の交差点まで戻って、車道を蔵王峠まで進んで行く方が歩きやすい。

 
堀越癪観音の大銀杏   いちょう飴
堀越癪観音周辺
 
第十三経塚向い多和   蔵王峠

 蔵王峠は、現在、車道が走り、大阪側へは光滝寺を経て滝畑に至る。また、和歌山側へ下りると妙寺に至り、かつては町石道を使って高野山まで通じていた。この峠の東に蔵王権現社があり、朱塗りの幾つもの鳥居をくぐり抜けていくと社殿のある広場に着く。蔵王権現社の社殿が正面にあり、祭神は、葛城蔵王大権現・一言主大明神・丹生大明神・葛城王命の4柱である。その右手に小社があり、役行者の石像を中心に、左に不動明王、右に理源大師が鎮座している。役行者像には、「寛永四年(1627年)、正徳三年(1713年)」と刻まれているが、左右の二体は比較的新しい。やはり、葛城修験と結びついた神仏習合の神社である。
 社殿の正面に伸びる尾根筋を上っていくと南葛城山(第十四経塚)に通じるが、その東に修験の里大畑 という集落がある。大畑の里には、法華経を所蔵した守安家があった。『紀伊続風土記』によると、「役行者、葛城を踏み分けし時、此家に止宿し、法花經一部を書す。其後子孫連綿として血脈相続し、今に至りても聖護院入峯の時は止宿せらる。行者真筆の経ありしか今伝わらす。此経、天授年間までは二巻伝へるよしにて、寛文記紛失状を載す」とあり、由緒正しき修験の宿だったようだが、今は、大畑に守安家はない。
 舟井の清水は、大畑の共同井戸で、その向かいに大きな家屋がひっそりと残っている。『紀伊国名所図会』に「宿や」とあるのは、この家屋だろうか。修験の宿として賑わった往時を、井戸の安置された弘法大師石像と共に想像してみる。

 

『紀伊国名所図会』大畑・竹尾より
 「行者蔵王」は蔵王権現社、「葛城」は丹生神社、「勝楽寺」は大畑児童会館と併用した形で残るが、「行者」「アミダ」なる建物は残っていない。「舟井清水」は、今も滔々と水が湧いている。

 
蔵王権現社入口   蔵王権現社社殿
 
小殿(左から、不動明王・役行者・理源大師)   役行者石像
 
勝楽寺には弥陀三尊などが安置されている   鮮やかな色彩が褪せていない丹生神社
 
舟井清水は村の共同井戸で、弘法大師が祀られている   舟井清水の向かいは、かつて「宿や」だったようだ
勝楽寺裏の石碑と六地蔵。一番右端は慶長五年(1600年)、二番目は寛永六年(1629年)の銘あり。