● 【葛城二十八宿】第五経塚「妙経薬草喩品」(やくそうゆほん)

【日本遺産】第五経塚(倉谷山)

【妙経薬草喩品第五】 ※要約
 「長者窮子の譬え」を聞いた釈尊は、その通りだという意味を込めて「薬草の譬え」を迦葉に説く。同一の雲から放たれた同一の雨水によって、植物はそれぞれの種類の種子に応じて生長し、花と実を付け、それぞれに様々な名前を得る。しかも、それらはすべて同一の大地に生え、同一の雨水によって潤されるのである。

【日本遺産】 葛城修験(構成文化財)
 倉谷山(第五経塚) / 根來寺

文献

引用・抜粋文

『葛城峯中記』
(室町時代初期)
鎮永/千勝院

三十一 炎明寺 薬艸喩品第五
三十二 石曳瀧寺
三十三 豊福寺 鴛川中宮ハ山王、西ハ金剛童子東ハ八王子下ハ聖観音
 ・・・是ヨリ東ノ谷ヲ行當、右南之谷入。
三十四 棑宿 東宿云。大朷(木+刃)多輪 尾傳東廿丁計行ハ大道出ル。
三十五 上朽佛 千草嶽ト云。五大尊ノ嶽四方ノ山ニ明王立給也。東へ尾傳ニ五六町兒留。
 是ヨリ左へ下、今畑也。瀧有、上二金剛童子有、在所ニ櫻見㕝也。
三十六 闇谷宿 蜘蛛留 中畑。西後ノ谷ヲ南方へ五六十丁登レハ西原ニ金剛童子。

『葛嶺雑記』
(江戸時代後期)
智航/
犬鳴山七宝龍寺

鴛河萬福寺
 本堂正観觀音本社山王に相殿東八王子西金剛童子惣而九神の社なり、前に佛像を彫たる石、又梵字石等数々にありて、いずれもいにしへの御作のものとみゆ。五六丁おくに不動堂・神變大士堂・石の窟・地蔵
一乗山根来寺
 是より山路に朽佛。地名は千草が嶽。五大尊が嶽
今畑多聞寺 
 このさとよりくらたに山の経塚遙拝 妙薬草喩品第五之地

【以下の文献より引用・抜粋】
●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録

 1114年(永久2)、覚鑁(かくばん)上人は高野山初参し、後に、鳥羽上皇の庇護を受け、根来近郊の荘園と豊福寺を賜った。この地域には、豊福長者が建てた葛城山系の山岳信仰をおこなう草庵もあり、上人は、その豊福寺(ぶふくじ)境内に、学問所として「円明寺」と「神宮寺」を建てたのが1143年。その年、覚鑁上人は円明寺にて49歳で入滅するが、以後の1205年頃までに、「根来寺」という呼称が定着したという。『葛城峯中記』を記した鎮永(1394〜1427)の頃には、既に、高野山上の大伝法院の活動が根来に移され(1288年)、大伽藍が整いつつあったと想像できる。(根来寺HPより抜粋)現在、円明寺は少し西の車道沿いに静かに鎮座している。また、豊福寺は境内の行者堂あたりにあったようだ。
 『葛城峯中記』によると、桜地蔵の第四経塚からは、根来の炎明寺(円明寺)や豊福寺に至り、そこから鴛川(押川)経由で上朽佛(土仏峠)、今畑、中畑と巡行している。興味深いのは、「炎明寺 薬艸喩品第五」と記されており、その著者鎮永(室町初期)の頃は、炎明寺(円明寺/根来寺伽藍内)に第五経塚があり、その後、現在の第五経塚である倉谷山に移ったようだ。
 現在、根来寺から押川まで直進するルートを分け入るの難しく、途中、採石場に阻まれている。したがって、押川へは、県道63号線の風吹峠北側より車道を入る。押川の集落の入口には、萬福寺と日吉神社がある。萬福寺は、根来寺の末寺で新義真言宗の寺院で、近年、新築されたのだろうか、スレート瓦の寄せ棟造り。日吉神社の祭神は山王権現、九頭明神、八王子神で、「明和二年(1765年)九月」の銘の石鳥居がある。
 集落の真ん中を通る車道を進むと、やがて、右手に川へ下りる案内板がある。修験の行場であった「鴛淵」を示していると思われるが、平坦な草地に、「大願主定堅/建徳二年(1371年)霜月廿四日」の銘のある石碑が立つ。ここで護摩が焚かれたのだろうか。『紀伊国名所図会』1811年(文化8)によると、「毎年大晦日に、鴛鴦渕に鴛鴦がやって来て越年する」とあるが、現在、この付近にはそうした淵は見あたらない。もう少し上流に進むと、常緑樹が覆い被さる渓流に滝の流れやそれらしい淵もあるが、見当をつけることができなかった。また、先の図絵の中には、「亀石」と示されている。村のご高齢の方に尋ねると、道路沿いに「亀石」と呼んでいる大きな石があったが、道路整備の際、移動させられ行方は知らないということだった。この川に沿った林道をさらに進み、土仏峠をめざす。

 
『紀伊国名所図会』押川より。風吹峠の場所が、現在とは真逆である。
 
円明寺   【日本遺産】根来寺行者堂
 
日吉神社(押川)   萬福寺(押川)
 
鴛淵付近の石柱   左石柱の裏面に「建徳二年(1371年)」の銘
 
鴛淵の名にふさわしい淵はなく、ここであっているのか。   押川から土仏峠をめざす

 一方、根来寺から第五経塚の倉谷山へは、錐鑽不動の右手奥から登山道が根来山げんきの森に向かって延びている。登り始めると、すぐに僧堂跡があり、石垣跡や砕けた瓦など見られる。和歌山平野が一望できる展望地を経て根来山げんきの森管理棟に至る。根来寺周辺の山々にはヤマザクラが多く、3月中旬頃から咲き始め見事な桜山となる。
 和歌山県植物公園緑花センター付近から、げんきの森まで車道が通じており、さらに土仏峠に至ることができる。(2023年2月現在、げんきの森から北は車両通行止)この車道を徒歩で北上するのもいいが、げんきの森管理棟の右手から登山道が延びており、先に車道に平行するような形で北上できる。やがて、北進してきた登山道と、押川から東進してきた林道と、先の車道が交差する。かつては、車道を交差して西側の尾根にとりつき北進していたと思われるが、この先、車道を進んでいくと電柱に巻き付けられた「土仏峠」の看板に出くわす。しかし、国土地理院の地形図上の「土仏峠」は、標高492.4の三角点である。三角点「土仏峠」への登山口は、車道脇にあるもののとても分かりづらい。また、そこから先も枝道がいくつかあり、地図をよく見て進みたい。三角点「土仏峠」を無事通過できれば、あとは尾根伝いに約30分で倉谷山の第五経塚 に到着できる。
 『葛城峯中記』にも『葛嶺雑記』にも、ここを「朽佛」と記しており、また、「千草嶽」とも言うとある。『紀伊国名所図会』によると、「弘法大師が葛城修行の際、この山の土を使って自像を作ったことから土仏という」と記している。倉谷山山頂は、経塚からさらに東へ数百メートルの三角点440.4mである。経塚がある場所は、平坦で和泉砂岩の石祠と、経塚には少ない石灯籠もみられる。この辺りは「稚児ヶ墓(兒留)」という名があるようで、由来はよく分からない。第五経塚の200mほど手前に、今畑へ下る分岐路があり、かつての行者たちはそこを使ったという。『葛嶺雑記』では、「このさと(今畑)よりくらたに山の経塚遙拝 妙薬草喩品第五之地」とあり、江戸時代後期には、第五経塚は根来寺から倉谷山に移っていたようだ。ただ、この山には登らず遙拝したとある。登山道としては、倉谷山から尾根伝いに中畑峠を経て池田隧道北口に至る ルートがよく使われている。

 
錐鑽不動    僧堂跡
 
展望地   押川からの林道と元気の森からの登山道との合流点
 
車道の土仏峠   三角点土仏峠に至る登山道の進入路(右手に踏跡)
 
三角点土仏峠   倉谷山に至るやせ尾根
 
【日本遺産】第五経塚   【日本遺産】根来寺大伝法堂