【大股から伯母子峠を目指して】
熊野古道小辺路は、熊野三山と高野山を結ぶ最短経路で、参詣者のみならず商人や庶民も利用した生活道路である。明治22年8月、奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲い、村が壊滅するほどの大水害となった。そこで、新たな生活の地を求めて600戸2489人が北海道への開拓移住を決断、現・新十津川町が開村されていくた話はよく知られている。川村たかし著の『新十津川物語』では、両親を失い姉は嫁いで行った津田フキ9歳は、たった一人の身内である兄照吉17歳と共に、十津川村を後にするが、その時歩いた道も、この小辺路である。
小辺路は交通の便も悪く、高野山から熊野大社まで数泊の行程で行ききるか、日帰りのピストン登山を繰り返すかである。実際、この熊野古道を歩いていると、世界遺産に登録されて以降、前者の行程で駆け抜けていく若者のグループや外国人によく出会う。私の場合、奈良県在住であり、体力的なことから、後者の方法で熊野古道小辺路を楽しんでいる。大股(野迫川村)〜三田谷(十津川村)間は、両登山口から2回に分けて伯母子峠(伯母子岳山頂)を目指した。それぞれ、別ルートの「伯母子岳登山」と言いかえることもできる。

実は、熊野古道が世界遺産に登録される前にも、大股から伯母子岳に登ったことがある。登山道にありがちな岩ゴロゴロの悪路ではなく、数百年いや千年以上もの間、人々が行きかい踏みしめてきた「道」と感じた。さらに、茶屋跡という廃屋を見つけては、その叙情を倍増させた。
世界遺産登録後、あらためて大股に立ったが、登り始めて1時間、何かが違う。かつての空気が、もはや流れておらず、「古道」がなかなか現れてこない。やがて、その原因は、世界遺産登録後の行き過ぎた古道整備であることに気づいた。おそらく重機を使った拡張工事だろう。当時、「世界遺産指定に合わせて、村が進めた古道整備に、訪れた人々が愕然とした」というマスコミ報道を思い出したが、このことだったようである。
2025年3月、三度、大股から伯母子峠を目指す。2004年7月7日の世界遺産登録から20年たった。萱小屋跡には、清掃の行き届いた山小屋が出迎えてくれた。小屋内で囲炉裏用にと薪まで準備されている。野外には、キャンプファイヤーができそうな大きな広場。『野迫川村史』によると、この場所にかつては数戸の茶屋があったとされる。一方、例の過剰整備による古道箇所だが、この20年で、良くも悪くも風化が進み、多くの登山客はそれとは気づかないだろう。道というのは、こうやって移り変わっていくものなのかもしれない。
やがて、伯母子峠と伯母子岳、さらに護摩壇山の分岐路に差し掛かる。伯母子岳山頂からは、360度の展望が開け、とりわけ南に望む熊野の峰々の先に、目的地の熊野大社が待っていると思うと、心がかき立てられる。また、伯母子峠には避難小屋とトイレが整備されているが、こうした山中にてはありがちで、トイレの衛生状態は良くない。 |