Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 熊野古道小辺路・伯母子岳を行く

秀麗な山容の伯母子岳

<熊野古道・小辺路> 

起点 峠(標高) 距離(所要時間)
高野山    
水ヶ峰 19.3km(9時間)
大股    
伯母子峠 (1080m) 16.0km(7時間)
三浦口    
三浦峠 (1246m) 21.7km(10時間)
十津川温泉    
果無峠 (1114m) 11.3km(5.5時間)
八木尾    
三軒茶屋跡 5.6km(1.5時間)
熊野本宮    

【大股から伯母子峠を目指して】
 熊野古道小辺路は、熊野三山と高野山を結ぶ最短経路で、参詣者のみならず商人や庶民も利用した生活道路である。明治22年8月、奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲い、村が壊滅するほどの大水害となった。そこで、新たな生活の地を求めて600戸2489人が北海道への開拓移住を決断、現・新十津川町が開村されていくた話はよく知られている。川村たかし著の『新十津川物語』では、両親を失い姉は嫁いで行った津田フキ9歳は、たった一人の身内である兄照吉17歳と共に、十津川村を後にするが、その時歩いた道も、この小辺路である。
 小辺路は交通の便も悪く、高野山から熊野大社まで数泊の行程で行ききるか、日帰りのピストン登山を繰り返すかである。実際、この熊野古道を歩いていると、世界遺産に登録されて以降、前者の行程で駆け抜けていく若者のグループや外国人によく出会う。私の場合、奈良県在住であり、体力的なことから、後者の方法で熊野古道小辺路を楽しんでいる。大股(野迫川村)〜三田谷(十津川村)間は、両登山口から2回に分けて伯母子峠(伯母子岳山頂)を目指した。それぞれ、別ルートの「伯母子岳登山」と言いかえることもできる。

 実は、熊野古道が世界遺産に登録される前にも、大股から伯母子岳に登ったことがある。登山道にありがちな岩ゴロゴロの悪路ではなく、数百年いや千年以上もの間、人々が行きかい踏みしめてきた「道」と感じた。さらに、茶屋跡という廃屋を見つけては、その叙情を倍増させた。
 世界遺産登録後、あらためて大股に立ったが、登り始めて1時間、何かが違う。かつての空気が、もはや流れておらず、「古道」がなかなか現れてこない。やがて、その原因は、世界遺産登録後の行き過ぎた古道整備であることに気づいた。おそらく重機を使った拡張工事だろう。当時、「世界遺産指定に合わせて、村が進めた古道整備に、訪れた人々が愕然とした」というマスコミ報道を思い出したが、このことだったようである。
 2025年3月、三度、大股から伯母子峠を目指す。2004年7月7日の世界遺産登録から20年たった。萱小屋跡には、清掃の行き届いた山小屋が出迎えてくれた。小屋内で囲炉裏用にと薪まで準備されている。野外には、キャンプファイヤーができそうな大きな広場。『野迫川村史』によると、この場所にかつては数戸の茶屋があったとされる。一方、例の過剰整備による古道箇所だが、この20年で、良くも悪くも風化が進み、多くの登山客はそれとは気づかないだろう。道というのは、こうやって移り変わっていくものなのかもしれない。 
やがて、伯母子峠と伯母子岳、さらに護摩壇山の分岐路に差し掛かる。伯母子岳山頂からは、360度の展望が開け、とりわけ南に望む熊野の峰々の先に、目的地の熊野大社が待っていると思うと、心がかき立てられる。また、伯母子峠には避難小屋とトイレが整備されているが、こうした山中にてはありがちで、トイレの衛生状態は良くない。

 
大股駐車場(4〜5台)   伯母子岳への登山口
 
萱小屋跡に建てられた避難小屋   避難小屋内部
 
世界遺産登録後に整備された古道の一部   桧峠
 
伯母子峠避難小屋・トイレ   伯母子岳山頂

【三田谷から伯母子峠を目指して】
 十津川村の五百瀬は、熊野古道小辺路を伯母子峠から下ってきた所にある神納川沿いの集落であり、三浦峠を越えて西川沿いの西中集落に至る中継地点でもある。十津川側から伯母子峠を目指すべく、三田谷登山口にとりつく。最初は尾根伝いの急登だが、やがて「侍平」に至る。
『吉野郡名山図志』によると、「土俗云く、大塔宮十津川より都へ上りたまふ時、村上彦四郎、遥かの後にさがりしを、この地にて待ちたまふにゆゑに、侍平と云ふ。」と記され、大塔宮由来の命名か。また、『熊野案内記』には「寺一軒有」、他の資料には「茶店あり」という記述も、残された石垣はそうした建物の跡だろうか。
ここから、古道はしばらく石畳が続く。この登山道は所々複線化しているところがあり、時代とともにルートは変遷してきていると思われる。しかし、侍平から延びる石畳は、先人が受け継いできた道普請の跡であり、この間は固定化していたのではないだろうか。雨が降って石畳が濡れるとスリップなどの危険もあり歩きにくさも否定できないのだが、登山道が水路となってU字溝化していくの防いでくれる。石畳の坂道を登り切ってやや平坦となった登山道の東斜面は、大規模な崩落地となっている。それに伴いそれに伴い、崖の頂上部分がせり出したエッジとなっており、今後、注意が必要である。

 「水ヶ元茶屋跡」には、弘法大師坐像が安置された祠がある。『熊野案内記』(1682年)には、「うえにしより水が本へ半里、家有。弘法の封じ水有、故に水が本と云」と記されている。また、ここには老女が一人で住んでいた時期もあったからだろうか、山姥伝説との因果関係を、十津川村教育委員会が建てた案内板は説明している。
 「旅籠上西家跡」は、山中に珍しい開けた平地に目を見張る。『熊野案内記』(1682年)には、「かやごやよりうえにし迄弐里、家有」と記され、江戸時代初期には、ここに旅籠が存在していたようだ。1934年(昭和9年)頃まで、人が住んでいたという。『十津川郷の昔話』によると、「その昔、高野から伯母子峠を越えて馬が米や魚を十津川へ運んだ。早い朝が明けると、伯母子の方からチリンチリンと鈴が響いて、二頭も三頭もの馬が背中いっぱい荷を積んで下って行った。(中略)高野詣の人たちが行き来していたが、毎年、春から夏にかけては、巡礼さんがおおぜい泊り、夜の更けるまで御詠歌が止まずにぎやかだった。上西では、牛を二頭も飼っており、家の周りは広い畑で、野菜もたくさん作っていた。上西のナンキンとジャガイモは北海道に負けんぐらいうまいと評判だった。」と、古老の話を残している。したがって、大股から五百瀬間随一の大きな旅籠があった場所である。今も、屋敷跡の区画を示すかのように石垣が残っている。さらにその南側は、樹木を伐採して拓いた大きな平地があり、先の記述にある旨いジャガイモを育てた上西家の畑地であったと想像できる。

 上西家跡での休息を終え、伯母子峠をめざす。しばらく歩くと、東斜面に大きな崩落跡が見られる。古道管理者によって、最低限の補修は行われているが、もしここでスマホなど落として、崖下に滑り落ちていったとしたら、決して取り行ってはいけない。崩落地の崖ほど危険な蟻地獄はない。命と引き替えとなる。
 熊野古道小辺路を歩くという目的からすれば、伯母子岳(1344m)登頂はおまけのようなものである。標高1100m付近に差し掛かるとY字路になっている。右をとると小辺路なのだが、崩落箇所があるようで通行禁止となっており、西側のルートを迂回路としている。この迂回路は尾根伝いに直接伯母子岳山頂に至る。一方、通行禁止のはずの小辺路は、ゆるやかな登りでやはり先人たちが踏みしめてきた歩きやすい道である。伯母子峠には、避難小屋とトイレが整備されているが、こうしたトイレは衛生的に難があるのが常である。

今も残された石畳
 
三田谷登山口   侍平
 
水ヶ元茶屋跡   水ヶ元茶屋跡の弘法大師坐像
 
上西家跡   上西家跡に隣接していた畑地跡と思われる
 
本来の小辺路古道(右)と迂回路(左)の分岐   伯母子峠手前の古道(ミツバツツジ)
 
 
   

 
   

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