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伊勢神宮御料林と大台ヶ原

日出ヶ岳山頂の「宮標石」

 奈良県人として奈良県側から大台ヶ原に親しんでいる私の場合、例えば、三重県の方と一緒に台高山系の山々に登っていると、その親しみ方にいくつかの視点の違いがあり、教えられることも多い。
 ○ 三津河落山は、吉野川(紀ノ川)、熊野川、宮川の分水嶺であるが、三重県側は、大杉谷から伊勢市までの宮川水系である。
 ○ 台高山系の森林資源の活用方法として、かつては、森林鉄道が網の目のように発達していた。
 ○ 大杉谷は、その昔は、伊勢神宮の御杣山として、その後は、御料林として守られてきた歴史がある。
 特に、3つ目の、大台ヶ原と伊勢神宮の関わりについては、恥ずかしながら知識がなかった。大台ヶ原を反対側から望むというのは、とても新鮮である。

 「御杣山(みそまやま)」とは、式年遷宮の造営に必要な御用材をいただく清浄な山のことである。造営にはヒノキの大径木が必要となるため、適材不足に直面してたびたび変遷している。御杣山として、「大杉」の名が資料に出てくるのは、1541年(天文10)である。豊臣秀吉が関白となった1585年(天正13)以降は、大杉谷からヒノキが御用材として供給され続ける。(第41回〜46回)その間、毎回あまりにも大量のヒノキを伐採するので資源は枯渇。伐採地は、父ヶ谷、ウグイ谷、不動谷、粟谷、西谷、堂倉谷と、奥へ奥へと変遷して行ったと思われる。
 1709年(宝永6)には、ついに調達不可能と判断され、御用材の調達先は木曽のヒノキへと移っていった。1789年(寛政元)には、今一度、大杉谷から御用材が伐採されているものの、1809年以降、御料林として大杉谷の名は現れてこない。
 明治に入り、長く伊勢神宮と関わりの深かった大杉谷は、今度は、「御料林」として皇室財産となり、宮内省宮御料局(後の帝室林野局)が管理することとなる。そして、1947年(昭和22)、林政統一のため御料林は「国有林」に編入となった。

遷宮回 西暦 元号 御杣山 概  要
  1541 天文10 外宮仮 江馬大杉 大杉の名が初めて出る
40 1563 永禄6 外宮 美濃山  
41 1585 天正13 内宮・外宮 江馬大杉  
42 1609 慶長14 内宮・外宮   ※資料なし
43 1629 寛永6 内宮・外宮 大杉山  
44 1649 慶安2 内宮・外宮   ※資料なし
1659 万治2 内宮仮 大杉山 からすき谷、古川谷、うぐい谷、父ヶ谷(4ヶ所)
45 1669 寛文9 内宮・外宮 大杉山  
46 1689 元禄2 内宮・外宮 大杉山 大熊谷、父ヶ谷、嘉兵衛谷、不動谷、粟ヶ谷以外の11ヶ所
47 1709 宝永6 内宮・外宮 木曽湯舟沢  
48        
49        
50        
51 1789 寛政元 内宮・外宮 大杉山 堂倉谷、粟ヶ谷、西谷以外の15ヶ所
52 1809 文化6     以降、大杉谷の記録なし

尾鷲営林署「大杉谷国有林の施業変遷史」1981年より

 日出ヶ岳から堂倉山、地池高、加茂助谷ノ頭のピークや尾根筋を歩いていると、「宮」の字の彫られた標石にしばしば出会う。これらの標石は、赤いスプレーで吹き付けられていることも多い。この時、三重の山仲間から「宮標石」のことを教えていただいた。「宮標石」は、大杉谷が「御料林」であったことの証で、明治時代、境界抗として設置された。「宮」の字は、ウ冠が輪を描く中に「呂」の刻印のあるデザインでおもしろい。

御料局が設置した標石は、明治27年(1894年)に制定された「御料地測量規定」や、明治29年(1896年)に制定された「府県委託御料地境界査定心得」に基づくものが始まりであるが、さらに、明治32年(1899年)に「境界踏査規程」が制定され、この時、「宮標石」の特徴である「宮」の字を刻むことが定められている。したがって、大杉谷周辺の「宮標石」は、明治32年以降の設置ということであろうか。その規程には、「凡ソ五寸乃至六寸(15.1cm/18.2cm)角長貳尺五寸(75.8cm)許ノ堅牢ナル石材ヲ用ヒ上部凡ソ五分ノ一ヲ四寸乃至五寸(12.1cm/15.1cm)角ニ削正シ上部ノ四端ヲ隅切ト上面ヘ十字形前面ヘ界何(番號ノ数字ノミヲ記ス)背面へ宮ノ文字ヲ刻シテ墨ヲ塗リ其ノ五分ノ四以上ヲ地下ニ埋ム」(「境界踏査規程」より抜粋)とあり、重さは1つ約51kgにもなったようである。そんな石材を、標高1200m1600mの尾根筋まで幾つも幾つも人力で運び上げ、5分の4以上を地中に埋めよというのだから、大変な重労働であったと推察する。

『大杉谷国有林からの手紙』20211月(発行:三重森林管理署尾鷲森林事務所地域統括森林官)には、「宮標石」のことが詳細に説明されているが、職員による境界巡視という任務についての記述がおもしろかったので、以下に紹介。「境界標を発見した時は、ブラシで表面のコケや土を落としてから赤スプレーをかけ、数字が読みにくくなっているものは読みやすいように補修するなど、後任の人が見つけやすい様に、しっかりと明示を行う。」多くの標石の頭が、スプレー缶で真新しい赤色が吹き付けられているのは、そういう理由だったのだ。

 日出ヶ岳山頂には、三角点や松浦武四郎の石標に加えて、この「宮標石」も残っているので探されたい。これら3つの標石の意味を知れば、登頂の際の感激が倍増するかもしれない。そして、台高山系の尾根筋を歩いたときには、澪つくしの如く、パイロットの役割も果たしてくれる「宮標石」を、これからは愛でていきたいものである。

  【表】 【裏】
御料地側・国有林側 民地側
宮標石 「宮」マーク 「界」+番号
現在の国有林 境界標番号 「山」マーク

【参考資料】
せんぐう館 平成29年度 企画展示 式年遷宮はつづく―御杣山―
大杉谷国有林からの手紙 2021年1月(発行:三重森林管理署尾鷲森林事務所地域統括森林官)
尾鷲営林署「大杉谷国有林の施業変遷史」1981年

 
「宮」の字マークの刻印   上部凡ソ五分ノ一ヲ四寸乃至五寸角ニ削正
 
宮標石の表(かつての御料林側、現在の国有林側)   宮標石の裏(界+番号)
 
国有林境界標の表(国有林側・番号)   国有林境界標の裏(民地側・「山」マーク)

赤線の内側が御料林