Home 大台自然観察ノート 大台ヶ原の歴史・文化  
 

大台ヶ原に建てられた石標

  
經塔石
奥村浅太郎
日下部守亮
丹誠上人旧蹟
大和岳
中岡吉千代
国境
日本鼻
岩本秀三

三津河落山
奥村浅太郎
国境
如来月
奥田利平
国境
名古屋岳
岩本弥一郎
国境
         
巴岳
日下部守亮
国境
日出ヶ岳
井場亀市郎
国境
大辨財天影向池
真田八十八
松浦武四郎
實利行者修行地
真田八十八
松浦武四郎
八大龍王影向池
真田八十八
松浦武四郎
逆川峠
当郡大淀村
石工 和田寅吉

【お願い】
正木峠木道近くにあった「マサキ峠」の石標(右画像)が、2021年現在、行方不明で 、大台ヶ原地区パークボランティアの会でも捜索しています。右写真は2005年10月28日に撮影されたもので、Website「松浦武四郎案内処」管理人様より許可を得て借用及び掲載させていただいています。発見された方は、是非、ご一報いただければ幸いです。

【備考】
 上石標のうち、現在、入山可能な登山道沿いで見られるものは、「日出ヶ岳→八大龍王影向池」までの4本と「逆峠」の1本のみで、「大和岳→巴岳」等は入山禁止区域である。

 
【松浦武四郎が建てた石標】

 松浦武四郎は1818年生、現在の三重県松阪市出身で、幕末、6度にわたって蝦夷地及び樺太、国後島、択捉島を調査し、150冊以上の調査記録を残している。明治2年には政府の開拓判官となって「北海道」の命名やアイヌ語の地名をもとに国名・郡名などを選定した。
 晩年は、明治18年から毎年計3度にわたって大台ヶ原を訪れた。この時、年齢はすでに68歳となっていたが、明治20年には富士山にも登るなど、その体力は並の70歳ではなかった。しかし、4度目の大台を登ることはなく、翌年の明治21年に71歳で没した。

 明治18年の1回目の大台入山の折、上北山村の岩本弥市郎、井場亀市郎(亀市)、小西善導らに案内を頼んでいる。数々の大仕事を終え終活を整えていたかもしれない武四郎に、再び辺境探検家として血が再燃した。この時、「優婆塞も聖もいまだ分け入らぬ 深山の奥に我は来にけり」という歌を詠んでいるが、役行者も空海も未踏だった深山に到達した喜びがうかがい知ることができる。生まれ故郷のすぐ近くに、骨を埋めるにふさわしい場所を見つけた。実際、西大台のナゴヤ谷に、彼の遺言通り分骨され、後に頌徳碑も建てられた。
 1回目の入山で、「国見が岳(大和岳)→日本ヶ鼻→如来月→三途の川落(三津河落)→七ツ池→塩辛谷→日出が岳(巴が岳)→正木兀(こつ)→巴が淵(片腹鯛池)」といった大台ヶ原の主だったピークをすでに踏破している。

 明治19年4月、松浦武四郎は大阪府知事宛に『大台江小堂建設之義御聞置願書』を提出し、そこには、「小堂を2,3ヶ所建てて神仏を祀り人々が寝泊まりでき来るようにしたい。里毎に違う地名を調べ、それを石標に記して十余ヶ所に設置したい。これらはすべて自費をもって行い、実務は地元の人に頼む。」としている。
  この後、武四郎が私財を投じて建てさせた石標は、東大台を中心に13本確認している。正面には「日出ヶ岳」等の地名、側面には「国境」と「井場亀市郎」など武四郎に随行した地元の人物名だろうか。そのうち、一般登山客が立ち入ることのでき確認できるのは日出ヶ岳、正木ヶ原、牛石ヶ原にある4本と西大台逆峠にある1本で、正木峠にあった石標(マサキ峠/奥村善松 )が、現在、行方不明である。
また、併せて申請した小堂は、元木谷(元小屋谷)・高野谷(開拓場)・名古屋谷に建てられたようで、明治20年の3回目の登山の折には、建設された小屋と設置された石標を確認し、地元の人たち60名を牛石に集めてその披露及び護摩修行を行っている。「如何なる悪魔も跡をとどめまじと開路の志願も成就すること疑いなし」と、武四郎の喜びようは一入だったとうかがい知ることができる。
ちなみに、明治28年に植生調査のために訪れた白井光太郎氏も、寄稿した雑誌で小堂の存在を証言している。

 計3回の武四郎の大台入山は、それぞれ異なったルートで入山している。また、2回目は、「この奥には道がないから帰れ」と炭焼き夫に制止されるが、大杉谷入山を試みている。蝦夷地を探索してきた武四郎にとっては、道がないことなどは引き返す理由にならなかったのだろう。
○ 明治18年 天ヶ瀬→伯母峯→大台辻→黄蘗岡→小池岳→経導師(経ヶ峰)
○ 明治19年 祖母谷村→新坂峠→市次郎後家→経塔石(経ヶ峰)
○ 明治20年 西原村→辻堂跡→大台辻→黄蘗項→塩葉辻→経塔石(経ヶ峰)

【参考文献】 
『乙酉紀行』(明18)、『丙戌前誌』(明19)、『丁亥前記』(明20)

    武四郎一行の大台へのルート 備 考
明治18  5/17

天ヶ瀬(八坂神社)→芋穴→天竺平→小舟→大舟→伯母峯→(旧)大台辻→黄蘗岡→小池岳→経導師(経ヶ峯)→山葵谷→高野谷→開拓場

伯母峯の地蔵堂倒れて今はなし
経ヶ峰:迷い寒さで震えたき火
古材で作られた野宿小屋(泊)

5/18

開拓場→大和谷→逆川→西ノ滝(銚子口)→大和谷→名古屋谷→座禅石→中ノ滝→東ノ滝→開拓場

小豆粥
5/19

開拓場→高野谷→国見が岳(大和岳)→日本ヶ鼻→如来月→三途の川落(三津河落)→七ツ池→塩辛谷→日出が岳(巴が岳)→正木兀(こつ)→巴が淵(片腹鯛池)

桧皮剥いで仮小屋(雲雀谷の上)
「優婆塞も聖もいまだ分け入らぬ 深山の奥に我は来にけり」

5/20

巴が淵→ほうそ兀→牛石→大蛇倉(ー)→ほうそ兀→白崩谷→二股谷

般若心経
實利行者の小屋・井戸、小屋掛け

5/21 二股谷→木津  
明治19 4/23 大阪府知事に「大台江小堂建設之義御聞置願書」  
5/ 3

祖母谷村→新坂峠→市次郎後家→経塔石→開拓場→牛石→開拓場

前日、祖母谷村大谷伝次郎家(泊)
シュウリ(野鳥の名)

5/4

開拓場→祖母峰→大舟→小舟→天竺平→いも穴→西川→天ヶ瀬

弥一郎宅(泊)
5/8 木津に出立 舟津村の井上藤兵衛宅に泊
5/9

舟津村→河内村→落合→白滝→水越峠(水呑峠)→奥定宮

炭焼き小屋に一泊
5/10

奥定宮→千尋滝→かもすけ谷→平等石→七ツ釜→不動滝→奥定宮→高瀬→中定宮→ちゝの谷(父ヶ谷)→奥大杉村

大杉谷に入山
浅井八重之介宅(泊)

明治20  5/9

西原村→河合村→小橡村→黄蘗村→滝泉寺→西原村

真田八十八宅(泊)
5/10 西原村大西喜兵衛宅 椎茸飯にうんざり、氷豆腐、鯇子
5/11

西原村→向坂→辻→橡清水→鳥のはた→辻堂跡→大台辻→黄蘗項→夫婦石→塩葉辻→経塔石→開拓場→日本が鼻→名古屋谷→三途川落→塩辛谷→小堂(新築)

 
5/12 巴が淵→牛石→大蛇ー→小堂→護摩場

約60名の村人が12時ごろ護摩場に到着、護摩をたく

5/13 武四郎ら6〜7人残る シウイチリーン(さえずり)
5/14

牛石→白岩崩→大蛇倉の下→ちゐの木谷→白崩出合→きわだ小屋→薬師堂→孫瀬村→木組村

 
【林實利行者が建てた石標】

 たくさんの石標の中で、松浦武四郎とかかわりのないものが1本ある。牛石の横に建てられたものがそうで、上図のような文字が刻まれている。この石標は、かつて、牛石の前のやや小ぶりの石の上に設置されていた。左面の「實利」というのは、林實利(はやしじつかが)という人物名である。實利は、1843年岐阜県生まれで、25歳の時に出家し、明治元年頃から大峯山に入り、笙の窟、深仙宿で千日行を行っている。大台ヶ原でも、明治3〜7年に千日行を行ったとされ、その満行を記したのがこの石碑であろうと思われる。大峰・大台での修行の際、わらじを脱いだのが上北山村天ヶ瀬の岩本家で、松浦武四郎に随行した岩本弥一郎氏は實利の弟子であったという。武四郎が建てさせた石標のうち、牛石近くの御手洗池に建つものには「實利行者修行地」の銘があり、かつては大盤石(神武天皇像裏手)に建っていたようである。
 實利は、1884年42歳の時、那智で冬籠もりの修行を終え、那智大滝より捨身入定した。

   

※梵字は「バン」で、金剛界大日如来を表す。

西大台ナゴヤ谷の武四郎分骨碑   牛石の横に立つ石標    

<備考>
 大台ヶ原には、自然公園法により特別保護区に指定されているエリアが多く、歩道を外れて入山することには制約があるが、このページの調査は、2017年、大台ヶ原地区パークボランティアの会が入山の許可を得て調査したものをベースにしている。