Home Field Note 大台自然観察ノート  
 

大台ヶ原に建てられた石標

  
經塔石
奥村浅太郎
日下部守亮
丹誠上人旧蹟
大和岳
中岡吉千代
国境
 
日本鼻
岩本秀三
 
 
三津河落山
奥村浅太郎
国境
 
如来月
奥田利平
国境
 
名古屋岳
岩本弥一郎
国境
 
         

現在行方不明

巴岳
日下部守亮
国境
日出ヶ岳
井場亀市郎
国境
マサキ峠 
奥村善松
 
大辨財天影向池
真田八十八
松浦武四郎
實利行者修行地
真田八十八
松浦武四郎
八大龍王影向池
真田八十八
松浦武四郎
【備考】
 上石標のうち、現在、入山可能な登山道沿いで見られるものは、「日出ヶ岳→八大龍王影向池」までの5本(うち1本は行方不明)のみで、「大和岳→巴岳」等は入山禁止区域である。
【松浦武四郎が建てた石標】

 明治19年4月、松浦武四郎は大阪府知事宛に『大台江小堂建設之義御聞置願書』を提出し、そこには、「小堂を2,3ヶ所建てて神仏を祀り人々が寝泊まりでき来るようにしたい。里毎に違う地名を調べ、それを石標に記して十余ヶ所に設置したい。これらはすべて自費をもって行い、実務は地元の人に頼む。」としている。日出ヶ岳山頂をはじめとする東大台に10ヶ所以上見られる石標は、この時のものである。では、松浦武四郎とは何者か。

 松浦武四郎は1818年生、現在の三重県松阪市出身で、幕末、6度にわたって蝦夷地及び樺太、国後島、択捉島を調査し、150冊以上の調査記録を残している。明治2年には政府の開拓判官となって「北海道」の命名やアイヌ語の地名をもとに国名・郡名などを選定した。
 晩年は、明治18年から毎年3度にわたって大台ヶ原を訪れた。この時、年齢はすでに68歳となっていたが、明治20年には富士山にも登るなど、その体力は並の70歳ではなかった。しかし、4度目を登ることはなく、翌年の明治21年に71歳で没した。大台ヶ原へは、上北山村天ヶ瀬の岩本弥市郎、井場亀市郎(亀市)、竹本忠兵衛らに案内を頼んでいる。

    大台へのルート 備考
明治18  5/17 天ヶ瀬→伯母ヶ峰→(旧)大台辻→小池岳→経ヶ峰→山葵谷→高野谷→開拓 経ヶ峰:迷う、寒さで震えたき火 明治3〜4年建立の古小屋泊
5/18 大和谷→逆川→西ノ滝(銚子口)→名古屋谷→中ノ滝→七ツ池→東ノ滝→開拓 小豆粥  
5/19 開拓→高野谷→日本ヶ鼻→如来月→三津河落→七ツ池→塩辛谷→日出ヶ岳・巴岳→正木兀(こつ)→片腹鯛池(巴が淵) 桧皮剥いで仮小屋(雲雀谷の上)
「優婆塞も聖もいまだ分け入らぬ 深山の奥に我は来にけり」
5/20 片腹鯛池(かたわらいけ)→ほうそ兀→牛石→大蛇ー→ほうそ兀→白崩谷→扨白崩(南大台)→平山兀→二股谷 般若心経
實利行者の小屋・井戸
小屋掛け
5/21 二股谷→木津  
明治19 4/22 大阪府知事に「大台江小堂建設之義御聞置願書」  
5/ 3 天ヶ瀬→伯母ヶ峰→キワダズコ→経塔石→開拓→牛石→開拓
シュウリ(野鳥の名)
5/4 開拓→伯母峰→天ヶ瀬  
5/9 木津→(大杉谷)  
5/10 →千尋滝・平等石・七ツ釜・不動滝  
明治20  5/11 →鳥のはた→辻堂跡→大台辻→キワダズコ→夫婦石→塩葉辻→経塔石→開拓場→高野谷→名古屋谷→三津河落山→塩辛谷→小堂(新築)  
5/12 巴が淵→牛石→大蛇ー→小堂→護摩場 約60名の村人が護摩に参加、12時より
5/13 武四郎ら6〜7人残る シウイチリーン(さえずり)
5/14 →牛石→白岩崩→大蛇倉の下→ちゐの木谷→白崩出合→きわだ小屋→薬師堂→孫瀬村→木組村  

 明治18年の1回目の登山の折、「優婆塞も聖もいまだ分け入らぬ 深山の奥に我は来にけり」という歌を詠んでいる。数々の大仕事を終え終活を整えていたかもしれない武四郎に、再び辺境探検家として血が再燃した。あの役行者も空海も未踏だった深山に到達した喜びがうかがい知ることができる。生まれ故郷のすぐ近くに、骨を埋めるにふさわしい場所を見つけた。実際、西大台のナゴヤ谷に、彼の遺言通り分骨され、後に頌徳碑も建てられた。
 明治2年に、京都興正寺の寺侍たちが開拓に入った高野谷には、当時建てられた小屋が廃屋同然で残っていたようで、武四郎らはここで雨露をしのいでいる。また、牛石周辺では、明治3年から7年までこの地で修行したされる林實利行者の掘った井戸や庵跡を確認している。

 明治20年の3回目の登山の折には、建設された小屋と設置された石標を確認し、地元の人たち60名を牛石に集めてその披露及び護摩修行を行っている。「如何なる悪魔も跡をとどめまじと開路の志願も成就すること疑いなし」と、武四郎の喜びようは一入だったとうかがい知ることができる。
 武四郎が私財を投じて建てさせた石標は、現在、東大台を中心に12本確認することができる。正面には「日出ヶ岳」等の地名、側面には「国境」と「井場亀市郎」など武四郎に随行した地元の人物名だろうか。そのうち、一般登山客が立ち入ることのでき確認できるのは日出ヶ岳、正木ヶ原、牛石ヶ原にある4本で、マサキ峠の石標が、現在、行方不明である。また、併せて申請した小堂は、元木谷(元小屋谷)・高野谷(開拓場)・名古屋谷に建てられたようで、明治28年に植生調査のために訪れた白井光太郎氏も寄稿した雑誌で証言している。

【参考文献】 
『乙酉掌記』『乙酉後記』(明18)、『丙戌前誌』『丙戌後記』(明19)、『丁亥前記』『丁亥後記』(明20)

   

※梵字は「バン」で、金剛界大日如来を表す。

西大台ナゴヤ谷の武四郎分骨碑   牛石の横に立つ石標    
【林實利行者が建てた石標】

 たくさんの石標の中で、松浦武四郎とかかわりのないものが1本ある。牛石の横に建てられたものがそうで、上図のような文字が刻まれている。この石標は、かつて、牛石の前のやや小ぶりの石の上に設置されていた。左面の「實利」というのは、林實利(はやしじつかが)という人物名である。實利は、1843年岐阜県生まれで、25歳の時に出家し、明治元年頃から大峯山に入り、笙の窟、深仙宿で千日行を行っている。大台ヶ原でも、明治3〜7年に千日行を行ったとされ、その満行を記したのがこの石碑であろうと思われる。大峰・大台での修行の際、わらじを脱いだのが上北山村天ヶ瀬の岩本家で、松浦武四郎に随行した岩本弥一郎氏は實利の弟子であったという。武四郎が建てさせた石標のうち、牛石近くの御手洗池に建つものには「實利行者修行地」の銘があり、かつては大盤石(神武天皇像裏手)に建っていたようである。
 實利は、1884年42歳の時、那智で冬籠もりの修行を終え、那智大滝より捨身入定したそうである。

【2つの伝説】

 明治28年に植生調査のために訪れた白井光太郎氏が、大峰・大台探訪記を雑誌『山岳』に寄稿しているが、そこに次のような伝説が紹介されている。
「牛石といふ大石あり、昔時最澄上人魔性を降伏し、牛石へ伏せ籠めし處といひ傳ふ、途中にまさきの原と云う處あり、此處にカタワラ池と云あり、義經鯛の片身を捨てたるもの、變じて池となると云傳ふ」