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                       千里浜の千里王子の1つ手前(北側)が岩代王子。父である孝徳天皇を失った有間皇子は、政争に巻き込まれまいと距離をとっていたにもかかわらず、斉明天皇や中大兄皇子から嫌疑をかけられ、658年、紀の湯から護送される途中、藤白坂(海南市)で絞首刑に処せられる。享年19歳。処刑に先んじて、岩代の地で皇子が詠んだ自傷歌2首が『万葉集』に収録されている。
  有間皇子自ら傷しみて待つが枝を結べる歌二首
 磐代の浜松が枝を引き結び  真幸くあらばまた還り見む (巻2-141)
 家にあらば笥に盛る飯を草枕  旅にしあれば椎の葉に盛る (巻2-142)
 
  古代、松の枝を結ぶことは、誓いを立てたり無事を祈る習俗であった。生け花で見られるように、1本の小枝の端を丸く結わったのか、それとも、2本の小枝の端と端を結んだのだろうか。しかし、有間皇子の祈りは叶うことなく、生きて再びこの地に赴くことはできなかった。長意吉麻呂や山上憶良、柿本人麻呂ら、有間皇子の悲劇を知る当時の歌人たちも、『万葉集』に追悼歌を残している。
 
  長忌寸意吉麻呂の結び松を見て哀しび咽べる歌二首
 磐代の岸の松が枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも (巻2-143)
 磐代の野中に立てる結び末 心も解けず古む思ほゆ (巻2-144)
 
  山上憶良の追ひて和へたる歌一首
 鳥翔り成通ひつつ見らめども 人こそ知らね松は知るらむ (巻2-145)
 
  (柿本人麻呂)大宝元年辛丑、紀伊国に幸しし時に結び松を見たる歌一首
 後見むと君が結べる磐代の 小松がうれをまたも見むかも (巻2-146)
 
  『紀伊国名所図会』にも紹介されている岩代の結松の名所は、現在、国道42号線沿いに記念碑が建つのみで、そこには感傷的な風情はない。交通量も多く、大した駐車スペースもないので、『紀伊国名所図会』に描かれたようなわけにはいかない。ただ、JR岩代駅付近から海岸に出ることができ、そこには熊野詣九十九王子のうちの岩代王子がある。そこには松林も残り、一息ついて有間皇子を偲ぶことができる。
 
  平安以降、「岩代」は結び松につながる歌枕となり、西行も次の歌を詠んでいる。
 
  松風増恋
 岩代の松風聞けば物思ふ 人も心ぞ結ぼほれける (山612)
 
  柿本人麻呂らの万葉歌は、有間皇子に対峙した挽歌となっているが、西行の歌は、そうではなく、「岩代の結び松」を平安以降の歌枕として詠ん
                      でいる。つまり、「(私の恋心は)結び松のように鬱屈して心が晴れることがない」と、まさかの恋歌なのである。したがって、西行が、
                      熊野詣の折、現地に立ち寄って詠んだ歌とは限らない。立ち寄っていれば、まさか恋歌は詠まなかったであろう。
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