小笹の宿

平等院の名書かれたる卒塔婆に、紅葉の散りかかりけるを見て、「花よりほかの」とありける人ぞかしと、あはれにおぼえて詠める (雑1114)

あはれとて花見し峯に名を留めて 紅葉ぞ今日はともにふりける

 平等院大僧正行尊は、大峰山・葛城山・熊野などで修行した修験者でもあるが、歌人としても名をはせ、小倉百人一首にも次の歌が収録されている。説明文にもあるように、大峰での孤独な苦行中に、ふと安らいだ一時を歌ったものと思えるが、大峰山中に咲く山桜は数知れず、どこで詠まれたものかその場所は特定できない。   

大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる (金葉集521)
もろともにあはれと思へ山ざくら 花よりほかにしる人もなし

 西行は行尊に随分惹かれていた。西行(1118-1190年)が生まれた時、行尊(1055-1135年)は63歳。行尊が亡くなった時、西行は17歳でちょうど中央に出仕した頃である。西行にとって行尊は祖父か曾祖父世代で、師を敬う気持ちで後ろ姿を追いかけたのであろうか。とりわけ大峰で詠んだ西行の歌には、行尊の姿がしばしば現れてくる。
 西行の冒頭の歌が詠まれた場所は、白洲正子著『西行』によると、「小笹(小篠)の宿」としている。(※西澤美仁・編『西行 魂の旅路』では、行尊は、百丁茶屋(二蔵宿)で詠み、西行はそこで卒塔婆を見つけたとしている。)
 
江戸時代に描かれた『大峯々中秘密絵巻』の小篠の宿には、47棟もの建物が描かれ、行者堂、聖宝堂、番所を除けば、あとは宿坊と先達の仲間宿らしい。これほどの繁栄を誇っていたにもかかわらず、明治以降の弾圧を機に衰退の一途を辿っていった。かつての面影は、山中における忽然と現れた平地や宿坊跡と思われる苔むした石垣の数々に見られる。まるで廃城のようでもある。しかし、その中で最も際立ったものは、平地の南端を流れる水量豊かな沢である。奥駈道の尾根筋で、これだけの水を得られるところは知らない。まさに山上のオアシス、山上ヶ岳に近く宿坊が立ち並んだ所以の1つである。現在は、行者堂、不動明王像、聖宝座像、そして避難小屋がみられるが、行者堂の前には「元禄九年」の銘の入る護摩炉が残っている。 『和州吉野郡群山記』畔田翠山(1847年)によると、七月に大護摩があり、護摩の煙を手拭いにしみこまそうと、手に巻いて差し出すが大きな争いになるという。この煙を移したもので、田畑に虫がついたとき追い払えば、虫は去るのだそうだ。
 さて、行尊の頃には、小笹の宿がどれほど賑わっていたかわからないが、重要な行場の一つであったことにはまちがいなく、西行はここでも行尊の足跡(卒塔婆)に出会ったわけである。ただ、ヤマザクラの花が匂う季節ではなく、紅葉の盛りであった。西行にとって、真っ赤に色づいたカエデの葉に行尊を偲ぶことも、そう難しくはなかったであろう。

 

 次の2首も、西行が小笹の宿で詠 んだものである。大峰山中には、ミヤコザサやスズタケなどの笹が見られる。場所によって、スズタケは人の背丈ぐらいに伸びるのに対し、ミヤコザサはせいぜい股下までであろうか。西行が同行したのは秋の峰入りと思われ、綿の法衣は朝夕の露に、そして秋雨にも濡れずいぶんまとわりついたことだろう。現在ならゴアテックスという優れもので、少々の霧雨の中も快適に走行できるが、西行の時代は、宿営地に着くごとに火をおこし、食事の準備と共に衣を乾かせるのが日課であったと思われる。やれ「水を汲みに行け、薪を集めてこい」とこき使われるのが新入りの行者の務めと西行は嘆いているが、澄み切った空に現れた月を愛でる気持ちまでへこんでいなかったらしい。

をささのとまりと申す所にて、つゆのしけかりけれは (雑918)
分けきつるをささの露にそほちつつ ほしそわつらふすみそめの袖

篠の宿にて、
 (雑1109)
庵さす草の枕に伴なひて 笹の露にも宿る月かな

   
   
 
行者堂前の護摩炉   とくとくと流れる湧水
 
避難小屋   聖宝理源大師像