笙ノ窟

みたけより笙のいはやへまゐりけるに、もらぬいはやも、とありけんをりおもひいてられて
(雑917)
露もらぬ いはやも袖は ぬれけりと きかすはいかか あやしからまし

 大峰奥駈の尾根上にある大普賢岳(1780m)だが、標高1150mの和佐又山ヒュッテから登ると日帰りコースである。このルート上には、ところどころに秩父帯のチャート層が露出しており、鉄梯子や鎖を使ってよじ登る岩礁がいくつもある。このチャート層には、風化によってしばしば大きな割れ目が生じ、人間が入れる大きなものは「窟(いわや)」と呼ばれている。指弾ノ窟(したんのいわや)・朝日ノ窟(あさひのいわや)・笙ノ窟(しょうのいわや)・鷲ノ窟(わしのいわや)と、いずれも修験道に関係する行場となっている。こうした窟も、さらに広さを確保するために、チャート層を人為的に開削したと思われ、板状層理を利用してくさびを入れれば容易に削岩することができる。宗教的な祠として利用以外に、夜露をしのぐ宿泊地としても重宝されたに違いない。
 なかでも「笙ノ窟」は、日本岳の絶壁に開いた洞窟で、窟の上の岸壁を遠くから見ると雅楽の楽器の笙に似ているところからこの名が付いたと言う。今でも40畳ほどの広さが見てとれるが、多数の鉄釘の出土が見られることから、木材を使った籠堂あるいは風雪よけの壁があったのではないかと考えられる。中世には、9月9日から正月3日までの100日間に渡って冬籠もりが行われ、五穀が断たれた。平等院僧正行尊、僧正行慶、日蔵上人、静仁法親王、円空などの名前が記録に残っている。

 その中の行尊(1055 - 1135年)は、大峰山・葛城山・熊野などで修行し、修験者として順峰(熊野本宮から大峰・吉野へ抜ける行程)の選定をおこなったという。1123年天台座主となり、後に大僧正となって「平等院」の名でも親しまれている。
 次の歌は、笙ノ窟での修行中に詠んだと記され、「露ももらない窟の中でも、辛く悲しい思いに袖はぬれた」と、修行の厳しさを歌っている。笙ノ窟への登り口にある和佐又山ヒュッテは、奈良県内で2ヶ所しかないスキー場の1つで、県内では豪雪地帯である。そこよりさらに標高の高い笙ノ窟での冬籠もりは、文字通り凍り付くような修行の日々だったであろう。ただこうした修行には、地元(現上北山村)の方のサポートもあっての成就と聞く。

大峰の生の岩屋にてよめる (金葉集533)
草の庵なに露けしと思ひけむ 漏らぬ岩屋も袖はぬれけり 


 西行は、そうした行尊の足跡を訪ねるかのよう、この歌をたずさえて笙ノ窟に赴いた。ただ、行尊のような五穀を断っての冬籠もりは行っておらず、秋の峰入りで大峰奥駈にチャレンジした際、立ち寄ったものと思われる。経験の浅い西行にとって、それはそれなりに厳しく苦しい修行だったであろうが、それは行尊の苦行の比ではない。歌の説明文にある「もらぬいはや」は行尊の歌からの引用で、歌の中でも再度使われている。行尊の行場に赴くことができた心の高揚感か、あるいは師の修行の心に触れることができたような気がしたのだろうか。

 

 行尊よりさらに早い時期に、日蔵上人(905年?-967年?)という修験者が、やはりこの笙ノ窟で苦行を行っている。日蔵、行尊、西行、それぞれ世代が異なるが、鎌倉時代、後鳥羽上皇の勅命によって編まれた勅撰和歌集『新古今和歌集』には、3人の歌が顔を合わせている。日蔵は、ここでの苦行に涙ぬらすという表現を用いているが、これをうけての行尊、西行の歌だったのだろうか。

御嶽の笙の岩屋に籠りてよめる  (新古今1923)
寂寞(じやくまく)の苔の岩戸のしづけきに なみだの雨のふらぬ日ぞなき

 余談だが、「日蔵上人吉野山にて鬼に逢ふ事」という表題で『宇治拾遺物語 巻第十一』に収められている話がおもしろい。文字通り鬼畜となって自身の恨みのままにたくさんの人を殺してきた鬼が、その苦しみ、悲しみを日蔵上人に相談し、懺悔するという話だが、大峰で修行を積んだ日蔵上人の徳の高さを象徴するかのようである。

   
   
 
笙ノ窟の内部   笙ノ窟の語源となる窟頭上の「笙」の部分
西行・日蔵・行尊の歌碑(和佐又スキー場)