『太平記』を読み解き、攻める千早城

千早神社への参道、急な階段が約600段続く
   

【太】太平記による記述月日 【史】史実による発生月日

正中の変 1324年 後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を計画したが、陰謀が発覚し失敗
元弘の変 1331年

再び倒幕計画を日野俊基に進めさせたが、4月に陰謀が再度発覚。
しかし、後醍醐天皇は9月に京からの脱出に成功、笠置山に至る。

元弘の乱

笠置山の戦い
【太】9月2日(10月4日)開戦、9月28日(10月30日)陥落

下赤坂城の戦い
【太】9月11日(10月13日) - 10月21日(11月21日)

1332年 後醍醐天皇は退位を強制され、隠岐へ流される
1333年

上赤坂城の戦い
【太】2月2日−  【史】2月22日(3月8日) - 閏2月1日(3月17日)

千早城の戦い
【太】2月2日 - 5月10日 【史】2月27日- 5月9日

船上山の戦い
【太】閏2月24日、後醍醐天皇は隠岐を脱出

六波羅探題陥落
【太】5月7日、足利高氏らが六波羅探題を攻める

鎌倉幕府滅亡
【太】5月9日、新田義貞ら幕府を攻め、得宗家当主北条高時・貞顕らが自害
【太】5月23日、後醍醐天皇は帰洛

【千早城】
 下赤坂城、上赤坂城、千早城は、千早川に沿い、上流へと進軍してくる幕府軍を、 まずは下赤坂城、次上赤坂城、そして最後に、千早城が迎え撃つ位置にある。千早川は、金剛山を水源とし、上赤坂城を突破したとしても、そこから上流の渓谷は、一層深さを増していく。例え、何万、何十万の大軍が攻め入ったとしても、細い隊列を成して進むしかない。石川河原に本陣を構えていたと思われる幕府軍は、現在、千早簡易郵便局などがある千早集落まで達したとしよう 。しかし、標高650m付近に位置する千早城本丸とは標高差150mあり、屏風のように立ちはだかる山城を前に、すぐには戦術がみつからなかったであろう。そこへ、『太平記』に描かれているような楠木軍の奇襲が迎え撃つのだから、物語としてはとても面白くなる。
 千早城が築城された場所は、転法輪寺や葛木神社などが鎮座する金剛山頂からほぼ一直線に延びた尾根上にあり、現在、最も利用者の多い「千早本道」とよばれる登山道がこの尾根に沿っている。「千早本道」の登山口は、千早神社参道からと言いたいところだが、この尾根は千早城跡の西で、ストンと切り立っており、車道に面する第一の鳥居から約600段もあるといわれる長い急階段を上らなければならない。したがって、ほとんどの登山客は、山の豆腐まつまさ前からの登山口を利用する。
 『太平記』では、千早城(千剣破城)を以下のように記している。「此城東西は谷深く切て人の上るべき様もなし。南北は金剛山につゞきて而も峯絶たり。されども高さ二町許にて、廻り一里に足ぬ小城なれば、何程の事か有べきと、寄手是を見侮て、初一両日の程は向ひ陣をも取ず、責支度をも用意せず、我先にと城の木戸口の辺までかづきつれてぞ上たりける。」この城を侮った幕府軍は、いきなり大敗を期すのである。

 千早城は、中世の山城の特徴をすべて兼ね備えていた。まず、千早神社本殿のあるところが二の丸、社務所のところが三の丸、茶店などがある大きな広場が四の丸である。三の丸と四の丸の間は細い参道で鞍部になっているが、ここには堀切が設けられていたと考えられている。千早神社本殿の裏手は、神域で立入禁止となっているが、そこが本丸で、石垣 は後世に築かれたものである。本丸の南には、コンクリート製の東屋があり、その下には大阪府立千早山の家(文館)、さらにその下にも同施設(武館)が建っている。そして、さらにその下にも曲輪があったようで、計五段の袖曲輪は「茶屋ノ壇」と呼ばれている。 また、本丸の東側にも、大きな曲輪が二段になってみられる。

 千早神社の歴史は、千早城の鎮守として八幡大菩薩を正成がお祀りしたのが始まりらしい。その後、長く荒廃していた時期もあったようだが、後に、正成・正行らを合祀する千早神社となり、現在の社殿は昭和10年建立された。先の大阪府立千早山の家には、「大阪府立存道館」という木札が掛かっており、こちらは昭和11年、東京帝国大教授平泉澄の発案によって建てられたらしい。戦前、皇国の機運が高まっていた時期と重なる。 想像するに、一時期、千早神社一帯に、多くの参拝客や修練のための人々で賑わった時期があったのだろう。境内に取り残された、普段戸の開いていない茶店や売店に、そんないつしかの風景を重ねてみる。

 
「楠石塔」は、現在も千早本道に見られる五輪塔で、楠木正儀(正成の三男)の墓とされている(『河内名所図会』より)
 
千早集落(左手山頂が千早城址)   千早神社登り口
 
四の丸跡(階段を上った最初の広場)   四の丸と三の丸の間の堀切跡と思われる
 
三の丸跡(社務所前)   二の丸跡(千早神社本殿前)
 
千早神社本殿   本丸跡(石垣は後世のもの)
 
本丸跡東側の曲輪跡   大阪府立千早山の家(存道館)
 
楠木正儀の墓   楠公誕生の地(千早赤阪村立郷土資料館横)

【千早城の戦い】
○断水作戦vs大木切り落とし攻め
 『太平記』では、赤坂城で成功した断水作戦にならい、千早城でも幕府側の同様の策が試みられる。しかし、「楠は元来勇気智謀相兼たる者なりければ、此城を拵へける始用水の便をみるに、五所の秘水とて、峯通る山伏の秘して汲水此峯に有て、滴る事一夜に五斛許也。」とある。 つまり、水源の豊かな金剛山において、数カ所の水源を断ったところで、至る所に湧水があり、金剛山の深さを考えると水の兵糧攻めは通用しない。案の定、「大木切り落とし攻め」に見舞われ、退散を余儀なく強いられるのである。

○わら人形作戦
 膠着状態となった戦いに、正成は、「寄せ手をだまして目を覚ましてやろう」と、等身大のわら人形を20〜30体作らせる。それらに甲冑を着せ兵杖を持たせて、夜の間に城の麓に置き、その後には500の兵を隠れさせた。夜明けを待って鬨の声をあげさせると、幕府軍は、城の兵が、いよいよ決死の覚悟で打って出てきたと 勘違いし応戦する。楠木軍は徐々に下がり、わら人形の所まで寄せ手を引きつけると、今度は、大きな石を40〜50個一度に落とし、300名が即死、500名が負傷したとしている。

○長梯子作戦vs火攻め
 長引く持久戦に、関東より飛脚が到来して、「軍を止て徒に日を送る事不可然。」と幕府の下知が飛ぶ。大将たちが相談した結果、敵の城の高く切り立った堀に橋を渡して打ち入ろうということになり、京都から職人を呼んで広さ一丈五尺、長さ二十丈余の梯子を作らせた。大縄を使い車木で巻き立てて、その梯子を城の城壁の上へ倒し架ける。 すると、5000〜6000の兵が先を競って橋を渡り始めた。正成は、兼ねてから用意していた松明に火をつけ、薪を積むように投げ、さらに滝が流れるように水弾で油を注いだ。前へ進めば猛火に襲われ、戻ろうとしても後陣が続いている。 また、飛び降りようとしても谷深く、やがて橋桁が真ん中より燃え落ちて、数千の兵が一人残らず焼け死んだという。
 『太平記』が語っている正成の奇策は、いずれも歌舞伎を見ているような面白さがあり、とりわけ正成人気の火付け役 となったにちがいない。

 幕府軍が千早城に釘付けになっている間、1333年閏2月24日に後醍醐天皇は隠岐を脱出し、全国に倒幕の綸旨を発した。5月7日に足利高氏が幕府を寝返って六波羅探題を落とすと、その知らせは千早城の両軍にも伝わり、幕府軍の諸将は撤退を急ぐ。さらに、関東では新田義貞が手薄となった鎌倉を攻め、5月22日ついに鎌倉幕府は滅亡した。楠木正成は千早城を守り切り、その後も、 後醍醐天皇のために奔走するのである。

参照:『太平記』巻第七「千剣破城軍事」(角川ソフィア文庫)

 
幕府側の長梯子作戦の戦いの様子か?(『河内名所図会』より)

千早城縄張図