記紀の中の熊野・花窟(はなのいわや)神社

 

花の窟
 梅原猛の著書『日本の原郷熊野』によると、熊野は古来より狩猟採集または漁撈採集の国であり、驚くべきことに徳川中期まで太古の風習が残っていたとする。日本は大きく分けると、縄文地域と弥生地域に分けることができ るが、弥生地域は、大陸からやって来た渡来人が稲作農業を持って古くから日本に住みついたところで、縄文地域の古モンゴロイドに対して、新モンゴロイドの国である。こうした農業文明の渡来にもかかわらず、のちのちまで縄文文化の面影をとどめたところがアイヌ文化と琉球文化であ るのだが、近畿地方では北と南に、そして山間や海浜の熊野にも縄文人が残ったというわけだ。

 熊野は、『日本書紀』において、イザナミノミコトの葬られた土地として登場する。イザナミノミコオトはイザナギノミコトと夫婦神で、多くの神を生み日本を創ったの だが、最後に火の神カグツチを生み、陰を灼かれて死んでしまうは。この死の場所が熊野の有馬村、現在の三重県熊野市有馬町で、現にそこに 「花の窟」というものがあって、イザナミノミコトと火の神カグツチの墓がある。(ただし、『古事記』では、葬られた場所は「淡海の多賀」としており、日本書紀と異なる。) さらに、ここから西に1km余りのところに産田神社があり、イザナギノミコトがイザナミノミコトを訪ねて黄泉の国へ行くが、イザナミノミコトの汚い姿を見たために追いかけられたところとされている。
 記紀神話においては二つの神の系譜があり、 一つは征服する神で「アマツカミ」と称される。そしてもう1つは征服された神々の系譜で「クニツカミ」と呼ばれる。アマツカミが稲作農業民であるのに対して、クニツカミは狩猟採集民。記紀の中の神武東征において、熊野はその上陸地としての光栄を与えられているが、アマテラスやニニギの子孫神武帝がアマツカミ系なら、熊野は土着日本人のクニツカミ系の神 。さらに、男神イザナギノミコトはアマツカミ系に属し、女神イザナミノミコトや火の神カグツチはクニツカミ系に属す。
 なんだか推理小説を解いていくような話になったが、「アマツカミ系は畿内進出において、熊野のクニツカミ系を力づくで従えたかあるいは平和的に味方につけるが、一部のクニツカミ系の反逆者(ここでは火の神カグツチとその母イザナミ)はここに葬らざるをえなかった」とするのはどうだろう。

 花窟神社は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。毎年2月2日と10月2日の2回御縄掛け神事があり、日本一長いともいわれている約170mもの大縄が、御神体の大岩から境内南隅の松のご神木に渡される。例えば2月に掛けられた大綱は、8ヶ月間風雨に耐え忍んでその役目を果たすわけだが、秋まで残っていればその年は豊作と言われているらしい。私が訪ねた時は、写真の通り綱はほとんど見られず、落ちた綱の残骸があちこちの照葉樹の木の枝に引っかかっていて、それはそれでこの神社独特の雰囲気をかもしだしていた。

鬼ヶ城
 花窟神社から国道42号線約4kmほど北上すると、同じく世界遺産の「鬼ヶ城」という名勝がある。熊野灘に突き出た小さな岬に、海風蝕と数回の大地震で隆起した凝灰岩の大岸壁があり、東口から西口の弁天神社まで約1kmの区間歩道も整備されている。
 その昔、桓武天皇(737〜806)の頃、この地に隠れて熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊多娥丸(たがまる)を、天皇の命を受けた坂上田村麻呂(751〜811)が征伐したという伝説が残っており、その伝説に基づいてかつては「鬼の岩屋」と呼ばれていたそうだ。また、岬の頂部には中世期の城跡も所在し、堀切りなどの遺構もみられ、現在は「鬼ヶ城」と呼ばれている。
 さて、ここにも新モンゴロイドと古モンゴロイドの対決構図がうかがえる。坂上田村麻呂が弥生人・アマツカミ系の代表なら、鬼の海賊多娥丸は縄文人・クニツカミ系の代表。伝説とはいえ、熊野の古代の構図の上にきちんとのっかた話であるのは興味深い。

【参考文献】『日本の原郷熊野』梅原猛・著(新潮社)

 
御神体の袂にある岩窟   約170mの大縄が境内の前で編まれている

鬼ヶ城(国指定天然記念物)