『日本書紀』の中の国樔人

国栖奏

  『日本書紀』の応神紀に、以下の話しが見られる。

 十九年冬十月一日、吉野宮においでになった。国樔(くず)人が醴酒(こざけ)を天皇に奉り、歌を詠んでいうのに、
 「橿の林で横臼を造り、その横臼に醸した御神酒を、おいしく召し上がれ、わが父よ。」
歌が終わると、半ば開いた口を、掌で叩いて仰いで笑った。いま国樔の人が土地の産物を奉る日に、歌が終わって口を打ち笑うのは上古の遺風である。国樔は人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。またかえるを煮て上等の食物としており、名づけて毛瀰(もみ)という。その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにいる。峯高く谷深く道は険しい。このため京に遠くはないが、もとより訪れることが稀であった。けれどもこれ以降はしばしばやってきて、土地の物を奉った。その産物は栗・茸・鮎のたぐいである。

(参照:全現代語訳『日本書紀』宇治谷剛孟・著/講談社学術文庫)

 「国樔は人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている」という国樔人の説明が興味深く、一説には、大和朝廷をはじめとする渡来系の支配者が現れる前の先住民の一族とも言われている。すなわち生活スタイルは、狩猟・採集で、縄文人というわけだ。その国樔人が、応神天皇を手厚く迎えたというわけだから、ここでは渡来系の弥生人と先住民の縄文時との間に、もはや確執は生じていないということがうかがえる。国樔人が屈したのか、それとも和解したのか、いずれにしても、先住民のご馳走を奉っているところもおもしろい。
 さらに数百年後、今度は壬申の乱で挙兵した大海人皇子がここにやってきた。国樔人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏したという。これを見た皇子はとても喜び、国樔の翁よと呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになった。その後、代々受け継がれて、毎年旧正月14日に天武天皇を祭るここ浄見原神社で奉納されるのが「国栖奏」だ。
 神前には山菓(くり)・醴酒(一夜酒)・腹赤の魚(ウグイ)・土毛(根芹)・毛(赤蛙)などの珍味が供えられる。季節的にアユが捕れずウグイだったのだろうか。また、アカガエルを献上してもてなしたとすれば、かつての国栖人の食生活が忍ばれ興味深い。
 後に天武天皇となって妃(後の持統天皇)と共にこの地に訪れた際、こんな歌を詠んでいる。

淑き人のよしとよく見てよしと言ひし 吉野よく見よ良き人よく見 (万葉集1-27)

【翁舞】
 さて、国栖奏は翁舞であるが、最近では、平成2年の皇居・東御苑内の大嘗宮で挙行された皇位継承儀式、大嘗祭においても、国栖奏が楽師によって国栖古風幄舎で奏されたという。ここ浄見原神社で相される国栖奏は、氏子たちで伝承されている素朴な味わいがあるが、応神天皇や天武天皇所縁の舞という、奥ゆかしさと誇りが感じられた。ちなみに、当日受付で1000円を納めれば、舞のあとに記帳した名前を個々に名のり上げ、「エンエイ(延栄?)」と囃し立ててもらえる。
「エンエイ」音声 > kuzusou04.mp3

 
腹赤の魚(ウグイ)   毛(赤蛙)
 
山菓(くり)   土毛(根芹)
 
醴酒(一夜酒)