万葉の里真土山

飛び越え石(落合川)

 奈良と和歌山をつなぐ交通の大動脈として、JR和歌山線や国道24号線がその役割を長く担ってきたが、2006年には、京奈和自動車道五條道路が完成した。なかでも五條(奈良県)から橋本(和歌山県)へさしかかるあたりは丘陵地となっており、古来から「まつち」とよばれてきた。この「まつち」という地名には、現在、橋本市隅田町で「真土」という字が使われており、一方、『万葉集』では「亦打山」「信土山」の万葉仮名が当てられている。ちなみに、JR和歌山線は真土峠の南側を迂回し、国道24号線はその真ん中を通っている。『紀伊国名所図会』の真土山鳥瞰図を見ると、「真土山」「真土峠」「真土川(落合川)」が描かれているが、極楽寺や落合川の構図は現在のものとぴったりと一致している。となると、現在、『紀伊国名所図会』の真土山は住宅地として造成され、その裾野には京奈和自動車道が横切っているわけだ。さらに、真土峠だが、国道24号線の真土峠よりもずっと北にあり、ここも近年造成された住宅地となっている。

 さて、とりたてて風光明媚な景勝地があるわけでもないこの地が、万葉人にはとても人気があり計8首の歌が残る。大和と紀伊の国境である「まつち」は、当時都のあった大和から旅立つ際の哀愁であり、紀伊から無事帰還でき早く家族や恋人に会いたいというはやる気持ちが増したのだろう。現在なら、さしずめ関西国際空港の国際線発着ロビーということになる。異国の地に赴く旅先では、病や疲労、人災や自然災害などが待ち受け、再び都の土を踏むことができるかどうか想像以上に命がけの旅だったのかもしれない。真土峠は、生と死を分ける境でもあったわけだ。

現在の真土の地には、この地を詠んだ『万葉集』の8首すべての歌碑が立つ。奈良県と和歌山県の県境を流れる落合川には、「飛び越え石」と名付けられた自然の石橋(※上写真)も存在する。地元では「神代の渡り場」と伝えられてきたらしく、万葉時代の古道もおそらくここを通過していたのではないかということだ。歌碑の多くは、真土の象徴でもある「飛び越え石」の周辺に立てられているが、先の『紀伊国名所図会』と見比べてみると、この石の存在には触れられていない。まして、1300年前ともなると、必ずしもここが多くの人々の行き交った「まつち」古道とは断定できない。しかし、車道や鉄道の喧噪から離れたこの石橋に、万葉人の姿を重ねてみるのも楽しい趣向である。

  万 葉 歌 歌 碑
巻1-55 あさもよし 紀伊人羨しも 真土山 行き来と見らむ 紀伊人羨しも @ H K
巻3-298 真土山 夕越え行きて 廬前の 角太川原に ひとりかも寝む G
巻4-543

神亀元年甲子の冬の十月に、紀伊の国に幸す時に、従駕の人に贈らむために娘子に誂へらえて作る歌
大君の 行幸のまにま もののふの 八十伴の男と 出で行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路より 玉たすき 畝傍を見つつ あさもよし 紀伊道に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は 黄葉の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我れは思はず 草枕 旅をよろしと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙もえあらねば 我が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千たび思へど たわや女の 我が身にしあれば 道守の  問はむ答を 言ひやらむ すべを知らにと 立ちてつまづく

F J
巻6-1019

石上乙麻呂卿、土佐の国に配さゆる時の歌
石上 布留の命は たわや女の 惑ひによりて 馬じもの 綱取り付け 鹿じもの 弓矢囲みて 大君の 命畏み 天離る 鄙辺に罷る 古衣 真土山より 帰り来ぬかも

E
巻7-1192 白栲に にほふ真土の 山川に 我が馬なづむ 家恋ふらしも A
巻9-1680 あさもよし 紀伊へ行く君が 真土山 越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね B I
巻12-3009 橡の 衣解き洗ひ 真土山  本つ人には なほしかずけり D
巻12-3154 いで吾が駒 早く行きこそ 真土山  待つらむ妹を 行きて早見む C
   
歌碑C   歌碑E(犬養孝筆)   歌碑G
 
歌碑I(犬養孝筆)       歌碑@

『紀伊国名所図会(真土山)』
国道24号線から、今もこの風景の残景が見える。ただ、真土山は住宅地として造成され、その裾野には京奈和自動車道が横切る。図絵に描かれている真土峠と現在の国道上にある真土 峠とは一致しないが、落合川や極楽寺の構図はぴったりと一致している。