日本で唯一の国宝に指定さるべき道「竹内街道」

司馬遼太郎氏も幼少の頃泳いで遊んだいう上池(カミノイケ)より、竹内峠のキレットを望む

 村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは路幅も変らず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変わっていまい。それが、竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾−竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。

 上記の文は、司馬遼太郎の『街道をゆく1・竹内街道』の一節だが、週刊朝日1971年1月1日号〜7月9日号の間に連載されたと巻末にある。したがって、令和の時代に入り、「車一台がやっと通れるほど」「依然として無舗装であり」といった情景は変わってしまったが、「日本で唯一の国宝に指定さるべき道」という歴史的価値は何ら変わりない。

太子町立竹内街道歴史資料館では、以下の4つの視点でこの街道が紹介されている。
@ 石の道
1400万円前の二上山の火山活動によってサヌカイト・凝灰岩・金剛砂が生み出され、これらを求めて人々は二上山をめざした。
A 最古の官道・大道
613年(推古21)、「難波より京に至る大道を置く」と記された最古の官道は、難波津から飛鳥の小治田宮を結ぶ道であった。
B 太子信仰の道
聖徳太子が葬られた太子町磯長(しなが)の御廟は、太子信仰の聖地となった。
C 庶民の道
中世末、堺の港と大和の今井を結ぶ経済の道として栄える。また、江戸時代の道標の多くは、当麻寺・壺阪寺・長谷寺・叡福寺・伊勢・大峯などを指しており、巡礼など庶民信仰の道でもあった。1688年(貞享5)には松尾芭蕉がこの峠を河内に向かい、1853年(嘉永6)には吉田松陰がこの峠を経て大和の儒者を訪ね、さらに1863年(文久3)には、天誅組の中山忠光等7名が志果たせぬままここを逃走した。

 今なお、司馬氏推薦の国宝指定には至っていないが、2017年(平成29)、『1400年に渡る悠久の歴史を伝える日本最古の国道「竹内街道・横大路(大道)」』として、日本遺産に認定された。

 
竹内峠(中央:旧竹内街道、左下:現竹内街道)   竹内峠に建つ記念碑
 
左国道166号線、右竹内街道   大和棟が残る民家(右手)
 
右:綿弓塚   造り酒屋を改装した綿弓塚の休憩所

【竹内峠→長尾神社】
 竹内峠(標高289m)付近をほぼ直線に伸びている国道166号線は、1984年(昭和59)に改修工事が完成、車で走ると苦もなくやり過ごすことができる。しかし、かつてはこの峠も難所と言われ、1977年(明治10)、堺県令の号令で竹内街道の大開鑿工事が始められた。5年の歳月を費やして完成した竹内街道も、竹内峠付近では旧道となって、現在の国道166号線より十数メートル高いところに残っている。
 旧道の峠頂上には、「從是東奈良県管轄」と彫られた県境を示す背の高い石標が中央に建ち、右に明治当時の功績を記した「竹内嶺開鑿碑」(明治18年建立)、そして左に「鶯の関跡碑」が並んでいる。最後の石碑によると、ここに鶯の関があったとされるが、関所についての詳細は手元に見つからない。康資王母・作、司馬遼太郎・揮毫の「我思ふ 心もつきぬ 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関」(『明玉集』鎌倉前期)の石版が印象的であった。
 この峠から奈良側への旧竹内街道は、国道166号線の南側を平行して通っている。ちなみに、2004年に開通した南阪奈道路もこの鞍部の地下を走っており、3世代が寄り添っている。竹内峠〜上池(かみのいけ)間の旧竹内街道沿いは、民家もなくアスファルト舗装されており面白みがない。大きな上池は農業用水池として何度も改修が繰り返されているようで、新旧3つの改修記念碑が設置されている。『街道をゆく1・竹内街道』によると、司馬遼太郎氏は子どもの頃、地元の少年たちとこの池で泳いだと記している。
 春日若宮神社付近から長尾神社まで、竹内街道は「竹内」「長尾」といった集落の間を通り抜ける。 石器作りの職人らが、この地に移り住んだことが竹内集落の始まりとされているらしいから、歴史は縄文時代にまで遡る。今も草ぶきの大和棟が残り、また、格子戸や虫籠窓を設けた民家も点在し、風情漂う道 が残る。なお、『野ざらし紀行』によると、芭蕉は1684年(貞亭元年) 9月に門人千里の案内で彼の故郷竹内村を訪れ、以下の句を残している。芭蕉の足跡を記念して1809年に建てられた「綿弓塚」が、造り酒屋の古い屋敷を改装した無人休息所敷地内にあり、竹内街道の散策の拠点となっている。

大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と伝処は彼ちりが旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。
わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく (『野ざらし紀行』)


 県道山麓線を東へ横断し、長尾の集落に入ったあたりで振り返ると、南に向かって伸びる金剛山地の稜線が幾十にも重なり、その美しさに思わずカメラを向けたくなった。背後に岩橋山、そして大和葛城山、金剛山と続く。『街道をゆく1・竹内街道』には、次のような記述がある。

 昭和十八年の晩秋、竹内へ登るべくこの長尾の在所までゆきついたとき、仰ぐと葛城山の山麓は裳(もすそ)をふくらませたように古墳状の丘陵がむくむくと幾重にもかさなりあい、空間を大きく占める葛城の本体こそ青々しくはあったが、そのスカートを飾る丘々がさまざまの落葉樹でいろづいていて、声をのむような美しさであるようにおもえた。くりかえしていうようだが、その葛城をあおぐ場所は、長尾村の北端であることがのぞましい。それも田のあぜから望まれよ。視界の左手に葛城山が大きく脊梁(せきりょう)を隆起させ、そのむこうの河内金剛山がわずかに頂上だけを、大和葛城山の稜線の上にのぞかせている。正面の鞍部が竹内峠であり、右手は葛城山の稜線がひくくなって、大舞台の右袖をひきたてさせるように、二上山が、雌その岳を左に雄岳を右になだらかに起伏させ、そして大和盆地からみれば夕陽はこの山に落ちる。その西陽の落ちるあたりに、中世の浄土信仰の一淵叢であった当麻寺があり、ありはするが、その堂塔は露骨ではなく、樹叢にうずもれてかすかにうかがえる。
 「大和で、この角度からみた景色がいちばんうつくしい」

長尾集落より葛城山系を望む
 
長尾集落内の道標   長尾神社